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大島場所
【おおしまばしょ】


(近世)江戸期の場所名。松前地のうち。松前郡江良町の西方海上12里29町にある。周囲がわずか4里14町の孤島である。「海底俯瞰図」によると,少し南西寄りに位置する小島との間に海底山脈が走っており,狭い島内に最高峰の江良岳,清部岳,寛保岳の三火山を有す(日本近海海底地形誌)。大島は平地がなく,全島火山灰と軽石からなっている。この島に昔アイヌなど住民が居たかどうかは不詳である。大島については天明5・6年の「蝦夷拾遺」に「民家なし,常に吐煙」とあり,さらに天明8年に渡道した菅江真澄が寛政元年に渡島(おしま)半島西岸を旅した時の日記「えみしのさえき」にも,大島は「ひがさの形にして,けぶりつねにたえず」と記されている。また,寛政9年松前藩主の命により編さんされた地誌には「東向出崎に岩穴あり深さ二丈ばかり暗くして灯燈をとぼし梯をかけて入り呑水をとるなり」(近世渡島地方史)とあり,この島が活火山で飲み水にも乏しいことから人の住居は難儀であったことがわかる。以前のことは不明であるが,少なくとも天明年間以降は無人島であった。この島は突如寛保元年大噴火を起こし,その灰は江差・福山・東北在に及び,噴火による津波のため渡島西海岸はもとより津軽・両羽・北越地方,遠く佐渡にまで甚大な被害を与えた。その被害は根部田より熊石にいたる海岸では,溺死した土着者1,236人(男826・女410),他国者(僧侶共に)231人,流失家屋729戸,破壊家屋33戸,流失倉庫4棟,破壊倉庫25棟,大小の破船1,521艘(内漁船1,329艘)に達した。佐渡など他地方も人畜・家屋に被害が及んだといわれる。この年,溺死者供養塔が松前城下西郊建石坂上に,寛保3年被災害者慰霊のため松前城下に無縁堂が創建された(新撰北海道史)。場所請負制は享保~寛延年間に成立したとされるが,この大島は比較的早く場所として開設された公算が強い。それは大島が城下松前に近く,元禄13年「松前島郷帳」に松前西在郷の1つとして掲載されていることによる。天保年間になると,当場所は「原口村持場之内」に併合される(天保郷帳)が,場所の開設年代は確定できない。大島海岸は北進する海流と江良町海岸近くで反流する両対馬海流に洗われる海食崖で囲まれているが,浪の平穏な夏季には小舟が着ける所(島の北東日方泊・西側東風泊・南端難波湾)があり,ここに春夏アイヌが渡ってきて海猟(海馬)を行った(東海参譚・西蝦夷地日記)。大島場所はこの海馬皮の物納や善知鳥(うとう)の捕獲(津軽藩国日記)に特色があった。初め当地は松前藩主直領であった。文化4年幕府の全道上知により大島は幕領とされたが,東蝦夷地(寛政11年~文化9年直捌)と異なり,西蝦夷地ともども直捌は行われず,場所請負いが継続された。文政4年松前藩の復領後も同様である。文政2~6年までの請負人は松前泊川町の長右衛門で,同人の請負いは幕末まで続く。この時期の運上金は2両1分,嘉永6年から安政4年までは3両1分,外積金永65文1分(海馬皮2枚代納,御用の時は現物で上納)であった(北海道漁業志稿)。運上金については河野常吉「場所請負人及運上金(抄)」に天保12年,安政元年の運上金3両とある(松前町史)が,弘化元年の「東西蝦夷地運上金高写」には弘化元年から嘉永元年までは3両1分とあり,少なくとも安政元年の運上金高は3両1分の間違いであろう。明治2年場所請負制が廃止されるが,この時大島場所には請負人は居なかったといわれる。明治2年渡島国津軽郡のうちとなる。のち小港汐吹の設営をみたという。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7001191