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落部場所
【おとしべばしょ】


(近世)江戸期の場所名。はじめ東蝦夷地のうち。箱館六ケ場所の1つ。寛政12年村並となったが場所名は存続。旧名は野田追場所,文政・天保年間以降落部場所と称する。北東は噴火湾(内浦湾)に面し,北は東蝦夷地ヤムクシナイ場所に接する。主産物はニシン・タラ・サケ・コンブ・イリコで,まれにオットセイ。コタンは野田追と落部の2か所。野田追場所が落部場所と変わったあとの安政元年の漁獲高は駄昆布4,888駄・拾昆布8,000把・鰯粕5,000貫・鰊6,600束余・鮊364束・鮭2,050本・煎海鼠469斤の漁獲をみた。これに要した漁具は筒船4艘・持符船63艘・磯船24艘・鰯引網5投・鰊差網1,000枚・鱈釣延縄196であった。なお,当地には駅逓・運送用の馬も79頭いた(東蝦夷地道中記・嘉永七年六ケ場所書上)。安政4年になると,鰊は1万8,786束余(落部で6,890束・野田追で1万622束2分余・茂無部で1,274束4分余),昆布は4,700石(嘉永末期までは長崎俵物として駄昆布を出す,のちは折昆布を出す。安政4年,落部・茂無部・野田追の3か所で約1,000石という記録もある),粕3,000玉に及んだ。このころ,場所内の開拓も進み,畑が1,600坪余(和人とアイヌ人の土地を合わせて)も開墾された。また,こうした開拓の進展とともに当場所からヤムクシナイ場所へ転住する者もあった。落部の善七,野田追の三四郎である。のち当場所はこのような動向を見せながら明治期へと向かった。なお,当地には寛政12年改による役金40両(6月3分,8月7分納)が課せられている。その内7両2分は豊凶による変動役金であったが,文化14年から役金は総て出荷物の5分という定率税に変わった(蝦夷地実地検考録・入北記)。漁業が盛んになった天保年間以降はさらに定住者が増加し,小商人・旅籠を含む弘化2年の家数は茂無部23軒,ホンミツク軒,落部40軒(他にアイヌ10軒),野田追2,3軒(他にアイヌ5,6軒),沼尻6,7軒(夏のみ住む),ホロムイ5,6軒,由井5,6軒,安政元年76軒・402人(男223人・女179人),同3年の戸口は茂無部13軒・90人,落部49軒・249人,野田追25軒・138人に増えている。同5年には由井・野田追の辺りに茶店・旅籠も増えた。文久2年には場所の家数がおよそ100軒に達したといわれる。アイヌの家数が安政元年47軒・215人(男111人・女104人)になり,同3年になると,茂無部に7軒(乙名ヒンマ),落部に34軒・150人(乙名コンホ),野田追に10軒・37人(乙名サンヌシ)と増えている。こうした中で落部アイヌの半数は左衽断髪の風俗を変えていった(東蝦夷地道中記・嘉永七年六ケ場所書上・戊午日誌)。嘉永7年のアイヌ人口は落部176人(男90人・女86人)・野田追39人(男21人,女18人),和人は茂無部75人・落部203人・野田追124人。安政5年正式に落部村となる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7001587