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鹿部場所
【しかべばしょ】


(近世)江戸期の場所名。はじめ東蝦夷地のうち。箱館六ケ場所の1つ。寛政12年村並となったが場所名は存続。同年尾札部場所が尾札部・臼尻・鹿部の3場所に分割して成立。南東に臼尻場所,南西に亀田郡七飯(ななえ)村,西に駒ケ岳(砂岳・内浦岳ともいう),北西に砂原場所に接する。また,北西~東南にかけては海に面し,北は内浦湾,東は太平洋,北東は室蘭の地球岬に対峙する。当初,尾札部場所の1小名で,のち独立した場所となってからの区域は臼尻場所の東西境・トコロ川~砂崎と松屋崎の間にある沼尻までである。この間の距離は3里11町32間ある。場所内の地名には臼尻場所寄りからザル石・シシベ・鹿部・砂盛・本別・モノミ浜・テケマ・松屋崎・沼尻がある(初航蝦夷日誌)が,「天保郷帳」には鹿部の持場として本別のみしか掲げられていない。この場所の西には駒ケ岳の噴火で塞ぎ止められた有名な大沼があり,また北にはこの大沼を源とするシュクノッベ川が流れている。川幅が7,8間あるこのアイヌ名の川は「うぐい魚・多い・川」を意味するという。ただし,菅江真澄「えぞのてぶり」には「柳生る流」の意とある。この川は一時鹿部川(原名ポロ・ペツ,大川の意)と呼ばれ,明治25年陸地測量部作製の20万分の1の地図にも記されたことがあるが,現在の鹿部川とは異なる(アイヌ語地名の研究)。海岸は鹿部地域に砂礫があり,図合船(6尺1寸~7尺)も掛澗できる所があるが,一般的に出来澗の岬端にかけて岩礁が点在し,小舟も接近不可能な難所が続いている。加えて,沼尻の沖合いは寒流が二方向(胆振から内浦湾に流れ込む寒流と恵山沖に流れる寒流)に分かれて流れる所に当たり,海上条件はすこぶる厳しい(地名辞書)。他の六ケ場所と同様,当場所も幕府蝦夷地直轄とともに寛政12年村並になり,幕府再直轄後の安政5年以降は村となった。「嘉永七年六ケ場所書上」によると,漁獲高は元揃昆布600把・駄昆布85駄・布海苔100貫・鱈150束・鰯粕4,000貫・鮭120本・鮊30束・煎海鼠270斤であり,漁具は筒船1艘・持符船11艘・磯船13艘,鰯引網2投・鯡差網100枚・鱈釣延縄165を数え,戸口も22戸・132人(男74・女58)いた。文化8年には23戸・106人(男58・女48)であった。この戸口はいずれも和人戸口である。「天保郷帳」でみると当場所にはアイヌ居住地がないが,「初航蝦夷日誌」には弘化2年鹿部のみに,減少したとはいえ,文政3・4年頃30軒余も存在したアイヌの家が7~8軒あったことが記されている。まとまった形でのアイヌ居住地は存在しなかったに過ぎない。和人戸口に示されるように,この場所は他の場所に比して戸口が少ない。それは駒ケ岳の噴火による被害をたびたび受けたことによる。特に安政3年8月の被害は甚大であった。強い北西風に乗った火山灰は遠くネモロ・シヤリにも降灰したが,鹿部・本別には焼石が降り,鹿部の人家14,5軒,本別の人家30軒余が焼失,同所トミ湯温泉の浴客26人が圧死し,隣の砂原場所の住人(南部陣屋詰めの人々を含めて)はことごとく鷲ノ木に逃れたという(窪田子蔵:協和私役)。こうしたことが災いしてか当場所は困窮甚だしいものがあったようである。実際,寛政12年改の当場所割当役金28両2分の上納は弘化~安政年間段階では免除され,他の場所からは援助も受けている。尾札部・臼尻両地からは合計8両が「手伝金」と称して代納されている(初航蝦夷日誌・入北記)。この時に限らず,駒ケ岳の噴火によってたびたび廃墟の様相を呈した当場所はその後復興し,明治期を迎えた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7003601