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野田追場所
【のだおいばしょ】


(近世)江戸期の場所名。はじめ東蝦夷地のうち。箱館六ケ場所の1つ。寛政12年村並となったが場所名は存続。文政・天保年間以降落部場所と場所名が変わる。北は内浦湾に面する。鷲ノ木場所の石倉の北西にあって,当場所の北西にはヤムクシナイ場所がある。寛政12年当場所は村並となり,和人地の東境がこれまでの石崎からヤムクシナイに移動したことにより東蝦夷地に接する和人地の端の所となる。場所内の地名を示せば,鷲ノ木寄りから茂無部・ホンミツ・落部・クロハゲ・アカハゲ・エナヲサキ・モノタヘ・野田追・沼尻・ホロモイ・由井(ユウヲイ)である。場所内には川が2つ流れている。1つは原名オ・テシュ・ペッ(川尻ニ魚ヲ掛ル川の意)なる落部川(幅20間),もう1つはヤムクシナイにある野田追川(幅15~16間)である。往時落部川の渡し守は皆アイヌであったが,弘化2年にはアイヌが減じて和人が行うようになった。操船による渡し銭は1人24文であった(初航蝦夷日誌・アイヌ語地名の研究)。寛文10年当時,落部はアイヌ乙名「あいつらい」の,野田追は同じく乙名「さよこ」の持分で,後者には家が7軒あった。ここ野田追は当時新井田権之助の商場でもあり,夏には新井田家の200石積の船が3度通った(狄蜂起集書/庶民集成,津軽一統志)。当場所の名は元禄13年「松前島郷帳」にも尾札部の次に掲げられており,この頃尾札部~落部間には集落がなかったことがわかる。この時代の初期には場所の境界さえはっきりしておらず,知行主新井田権之助の時,茅部との間で境界相論が生じている。元禄8年10月26日下国新五兵衛・蠣崎八郎右衛門の仲介によって和解が成立し,ここに一応の境界が決定された(福山秘府古今訴状部/新撰北海道史)。当場所の知行主についてみると,寛文年間~元文年間は先の新井田権之助,天明4年頃までは新井田儀之助,その後寛政年間頃までは新井田兵作(あるいは伊助・伊織),と代々新井田家であった。請負人は正徳年間頃箱館問屋角屋吉右衛門,天明末期箱館の江口屋兵右衛門(この時は茂無部場所とある。アイヌ乙名はコテコロ・小使コバルコ),寛政3年河崎屋新六,同4年頃箱館の白鳥新十郎,同11年頃京や嘉兵衛(茂無部請負人とある)である。翌年当場所は「村並」となったので,この京やが当場所の最後の請負人と推測される。知りうる運上金は元文年間不同,天明6~8年頃70両,寛政3年60両であった(津軽一統志・蝦夷商賈聞書・松前随商録・東蝦夷地道中記・場所請負人及運上金抄・木村謙次蝦夷日記)。当場所も多くの漁業者の移住・入稼ぎをみた。文化2年には既にユウヲイの浜辺に昆布採取小屋が軒を並べるほどの出稼ぎが見られたという(東海参譚)。同8年には39軒・162人(男87人・女75人)が定住(吹塵録)。文化年間頃59軒という記録もある。一方アイヌは寛政3年11軒・43人が住んでいた。文化年間頃では48軒。場所の中心は明和4年頃までは野田追で,落部はその一小名に過ぎなかったが,安永5年頃には落部に中心が移り,野田追・茂無部が枝郷の地位に転落した(近世渡島地方史)。当場所では昆布・鰊・鱈・鱒・布海苔・紫海苔・海鼠・帆立貝・鮊・鮭・膃肭臍などが漁獲された。内浦湾は特に膃肭臍の回遊が多く,その中でも当場所はことさら著名であった。享保・元文年間には商売目当ての捕獲が行われた。漁期は10月からである。当時,膃肭臍の目方のうち1貫300目~1貫400目までは藩主の納入分であり,残りは知行主新井田家の収納となった(松前蝦夷記・蝦夷商賈聞書)。寛政3年の昆布高は6,000駄(1駄4把,1把=50枚)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7006598