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箱館六ケ場所
【はこだてろっかばしょ】


(近世)江戸期の場所名。東蝦夷地のうちヲヤス(小安)からノタヲイ(野田追)に至る噴火湾沿岸地域に設定された諸場所,および寛政12年「村並」化以降の同地域の総称。箱館付六ケ場所または単に六ケ場所とも称した。はじめ松前藩領,寛政11年幕府領,文政4年再び松前藩領,安政2年から再び幕府領。箱館六ケ場所の呼称の成立時期は詳かでないが,現存記録による限りでは,寛政11年幕領化以前の記録には見えず,寛政12年同地域を「村並」とした際の幕府の記録にも「箱館最寄口蝦夷地之内ノタヲイ迄」と記すのみで(休明光記附録巻5),箱館六ケ場所の呼称は用いられていない。同年の「村並」化以降,とりわけ文化年間以降の記録に多く登場することからすれば,寛政12年の「村並」化を大きな契機として成立した可能性が強い。また仮に前松前藩時代に成立していたものと想定しても,その時期は当地域の商場(場所)数が,ほぼ6ケ所として定着する宝暦・天明年間以降のことと思われる。当地域における商場の設定過程は定かでないが,「津軽一統志」に「のたあい,とち川より八里有,新井(田)権之助商場」および「寛文拾年狄蜂起集書」に「のたおい,とち崎より八里,川有,家七間斗,狄おとなさよこ,新井田権之助商場」とあるのが当地域内の商場・知行主名の史料上の初見である。元禄13年「支配所持名前帳」では「於佐津辺(オサツヘ)」が新井田新兵衛の商場となっている。商場の存在形態の概要がほぼ把握できるようになるのは元文年間以降のことで,元文4年「蝦夷商賈聞書」によれば,「トヱ」が佐藤加茂左衛門商場,「シリキシナイ」が木村与右衛門商場,「イキシナイ并ニコブイ」が家老蠣崎内蔵丞商場,「トトホツケよりヲサ(ツ)ベ迄」が新井田兵内商場,「臼尻よりマツヤ」までが藩主商場,「カヤベ」が北見与五左衛門商場,「ヲトシ部・モナシ部・野田ヲイ」が新井田権之助商場となっている。同書には「ヲヤス(小安)」が記されていないが,これは後述のようにこの期には同地への定住和人が増加し,実質的に和人地化していたことによるものとみられる。また同書によれば,各家臣の商場は大部分が箱館または亀田商人の請負うところとなっており,藩主商場にあっても「小船ニ而村々より箱館江昆布積通」う状況にあり,同地域の産物はことごとく箱館に集荷されていることを知ることができる。当地域内各商場(場所)の請負人は,その後も大部分が箱館の商人であった(蝦夷草紙別録)。その後,宝暦3年11月「小安」が高橋七郎左衛門の商場(旧記抄録),「トイ,ハラキ」が天明2年10月佐藤権左衛門の商場から藩主商場へ(松前東西小名扣),次いで寛政5年9月工藤平右衛門の商場となる(工藤家年々秘録)など,知行主に移動がみられたが,天明年間には商場(場所)も,ヲヤス・ト井・シリキシナイ・ヲサツベ・カヤベ・ノタヲイの6か場所としてほぼ定着するに至った(松前随商録,北藩風土記)。寛政9,10年頃の各商場(場所)と知行主・運上金等の概要は,ヲヤス(高橋壮四郎,運上金68両,差荷物3品代金2両1分と銭650文),ト井(工藤清右衛門,運上金43両,差荷物4品代金1両2分と銭750文,他手場所運上金38両2分),シリキシナイ(木村与右衛門,運上金24両,差荷物8品代金2両3分と銭650文,他手場所運上金83両2分),ヲサツベ(新井田嘉藤太,運上金150両,差荷物10品代金9両3分と銭550文,他手場所運上金147両),カヤベ(北見常五郎,運上金150両,差荷物13品代金8両2分と銭1貫50文,他手場所運上金11両,ただし運上屋はサワラに所在),ノダヲイ(新井田伊織,運上金60両,家来上乗金10両2分,差荷物29品代金21両3分と銭750文,ただし運上屋はモナシベに所在)であった(蝦夷地御用中一件留/阿部家文書,松前東西地利)。「手場所」とは藩主商場のことである。このように前松前藩時代の当地域は,藩主や上級家臣の商場設定の対象地域とされたという点では他の蝦夷地と異なるところがなかったが,近世初期より和人の進出をみ,とりわけ元禄年間頃から昆布採取や鱒漁・鰯漁を目的とした和人漁民進出が顕著になり,これを土台として彼等が当地域へ定住し,和人とアイヌの雑居地となるに至った。松前藩は蝦夷島を和人地と蝦夷地の二つの地域に区分し,和人の蝦夷地への定住を禁止したのみならず,蝦夷地への往来も厳しく取り締まり,そのため西蝦夷地にあっては,元禄4年までは熊石村関内(せきない)以北への和人漁民の出漁を禁止しており(松前福山諸掟),その後享保年間には西蝦夷地へ出漁する漁民もみられるようになったものの(松前蝦夷記),同地域への定住者は未だみられなかった。元禄13年「松前島郷帳」が西在の西端を関内村(近世初期の和人地の西端)としながら,東在の東端は近世初期の石崎村よりさらに東進し,オヤス領におやす村・うか川村・汐くひ村の3か村を記し,「はらき」以東を蝦夷地としていることは,当地域の特性の一端を示している。その後も当地域へ出漁ないしは定住する和人が次第に増加していった。もっとも天明年間の「北藩風土記」に「ヲヤスムラ,高橋宗四郎支配,コノ地日本ト蝦夷トノ分境ナリ。故ニ戍楼ヲカマエ,是ヲ衛ル,二月ヨリ八月マテナリ。松府犯罪之流人ヲ放ツ地ナリ」とあって,戍楼(番所)を設けて蝦夷地への和人の往来を取り締まってはいたものの,当地域内への和人の出入についてはそれほど厳しい規制はなかったものとみられる。そのため寛政11年幕領化された時には「日本人多く罷在候」(休明光記附録巻5)状態となっていた。翌寛政12年の当地域の「村並」化は,このような状態を前提としている。これにより和人地の東端は,事実上一挙に噴火湾沿岸部のヤムクシナイまで北上することとなった。「村並」化以降の当地域の主な特徴は,まず第1に,場所請負制の発展のあり方とかかわって,寛政年間にはヲヤス・ト井・シリキシナイ・ヲサツベ・カヤベ・ノタヲイの6地域・場所名として成立していたが,「村並」化に伴い場所請負制を廃止し,かつオサツベ場所を屋札部・臼尻・鹿部の3場所,カヤベ場所を砂原・鷲ノ木の2場所とし,当地域内の主要な集落(9場所)を「村」に準じた行政単位として把握し,集落に村役人を置き,諸役を課したことである。寛政12年の各主要集落名と諸役は,小安(金70両,内60両村割,10両豊凶),戸井(金45両,内35両村割,10両豊凶),尻岸内(金105両,内55両村割,50両他豊凶),屋札部(金115両,内35両村割,12両2分夷人歩役,金60両新鱈冥加,其金は豊凶),臼尻(金140両,内金12両2分村割,12両2分夷人歩役,金60両新鱈冥加,他豊凶),鹿部(金40両,内28両2分村割,1両2分豊凶),砂原(金355両,出荷物より5分取分,村割なし,残らず豊凶,他に金20両新鱈冥加,鱈釣2人乗1艘に付5束,但し金355両は砂原・鷲木両村割,各1ケ年100両2分),鷲ノ木(砂原と共同),野田追(金40両,内32両2分村割,7両2分豊凶)であった(再航蝦夷日誌・箱館御収納廉分帳)。当初の村役人の名称は定かでないが,嘉永7年「六ケ場所高調子書上」の記載内容からすると,小安村の名主・年寄・百姓代という本来の和人地における村役人の名称を除けば,多く頭取・小頭等と称したものとみられる。第2に,当地域は「村並」になったあとも,箱館六ケ場所・箱館付六ケ場所・六ケ場所などと称されたのみならず,各集落も依然として「場所」と称され,「村」名は付されなかったことである。ただし,小安のみ「小安村」と記された。「天保郷帳」には「箱館付場所」として小安村(右持場,釜谷・汐首崎・瀬田東・蓬内),戸井(右持場,鎌哥・原木),尻岸内(右持場,日浦・昆布井・根田内),尾札部(右持場,樅法花・嶋泊・木直・川汲),臼尻(右持場,板木・熊泊・磯谷),鹿部(右持場,本別),砂原(右持場,掛澗),鷲ノ木(右持場,尾白内・森・蛯谷古丹・本茅部・石倉),落部(右持場,花無都・野田追)の主要9場所名が記されている。第3に,当地域内の和人人口が年々増加し,その結果文化9年には小安・鹿部・砂原の3場所,嘉永7年には小安・戸井・鹿部・砂原・掛り澗の5場所でアイヌの居住をみなくなったものの,他の場所にあっては幕末に至るまで和人とアイヌの雑居地となっていたところが多かったことである。文化9年の各場所ごとの和人・アイヌの家数・人数は,小安(和人65・270,アイヌなし),戸井(和人28・81,アイヌ4・9),尻岸内(和人52・218,アイヌ11・37),尾札部(和人44・176,アイヌ25・73),臼尻(和人34・122,アイヌ29・129),鹿部(和人33・107,アイヌなし),砂原(和人86・386,アイヌなし),鷲ノ木(和人55・230,アイヌ17・86),野田追(和人39・158,アイヌ32・151)の計和人436・1,748,アイヌ118・485(蝦夷地御用見合書物類/阿部家文書)。嘉永7年当地域全体の和人・アイヌの家数・人数は和人722・3,768,アイヌ96・377(六ケ場所調子書上)。その後安政5年,小安村・戸井・尻岸内・尾札部・臼尻・鹿部・砂原・掛り澗・鷲ノ木・落部の10場所を正式に「村」と称するとともに,鷲ノ木村の枝郷森・尾白内を独立させ,各々森村・尾白内村と称した(蝦夷地御開発諸書付諸伺書類)。以上の経緯をふまえれば,当地域は「村並」となったあとも安政5年までは本来的な和人地とは若干性格を異にし,和人地という性格をもちつつも,なおかつ蝦夷地と和人地の中間的性格もった地域とみてよく,また「村並」化以降も長く箱館六ケ場所・箱館付六ケ場所・六ケ場所あるいは箱館付場所と称されたのも,当地域のもつこうした歴史的特性によるものと思われる。なお,箱館を冠したのは,当地域は蝦夷地の内とはいえ,早期に亀田村・箱館村および両村近隣地域の住人の進出をみ,当地域の生産物はことごとく箱館に集荷されるなど行政・経済両面において箱館との関係が非常に強い地域として形成されたことによるものとみられ,また箱館付とされたのはこうした関係を前提にしつつ,寛政11年知内川以東の地が幕領とされた際,木古内村以東の地が「箱館付在々」として把握され,翌寛政12年の「村並」化により,これに準じた扱いをうけたことによるものとみられる。なお,当地域は明治2年茅部郡のうちとなる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7006722