北大遺跡
【ほくだいいせき】

札幌市北区北20条西13丁目一帯に所在する遺跡。K―39遺跡として登録され,北大構内遺跡ともいう。続縄文時代後半~擦文時代の重複遺跡で,擦文時代が主。サクシュコトニ川沿いの標高10m前後の微高地上に立地する。札幌駅の北西方約1.5kmの北海道大学寄宿舎恵廸寮,農学部付属農場付近が遺跡の中心。集落遺跡が基本であるが,明治20年代末に高畑宜一が竪穴住居跡群の分布作成。それによるとK‐39遺跡は75個の竪穴住居跡がプロットされ,北方の第二農場(K‐435遺跡)には45個がみられる。最初の発掘調査は,昭和27年に大場利夫らが第一農場で実施,約9,500坪の牧草地帯の中に,明確な竪穴73,やや明確さを欠くもの10,計83個が確認された。うち7個が発掘の対象になったが,全例未完掘と推測され,遺物は出土しなかった。昭和54年に道路工事などで竪穴住居跡が発見されて,大学構内埋蔵文化財調査プロジェクトの発足,埋蔵文化財調査室が設置され今日に至る。その結果,擦文時代の竪穴住居跡10,土壙6,堰状遺構1が検出され,中でも擦文時代の堰状遺構は注目される。これはサクシュコトニ川の支流である旧河川セロンベツ川に設けられたもので,合流点の約160m上流に位置する。川幅は河床部で約8.5m,肩の部分で約12mとされ,流路に対して少し斜めに設置され,全長約12m。残存部の長さ約1mの木杭を川底に垂直に打ち込み杭列を作り,これに角材や丸材,小枝をからめるように差しわたしたものを基本とし,ヤチダモが主体。上流側に頂点をもつ八の字状で,頂点部に開口部をもつ。アイヌ社会のテ
と呼ばれる魚止めの柵に類似するもので,擦文時代のものとしては,旭川市錦町5遺跡で1例検出されるのみ。北大遺跡の例は,集落のすぐ南側に位置し,集落付近の焼土跡からは,サケ科を中心とする魚の歯が多量に発見され,当時の生業の基本がサケ・マスなどの漁労であったことを証明する。炭化種子遺物に米・オオムギ・モロコシ・アワがあり,中でも米は,「夷」の古形文字とされるものが書かれたへら書き土師器とともに本州からの移入品とされる。文献は羽賀憲二「札幌市・琴似川流域にあった竪穴住居址群」(昭和50年,北海道考古学11所収),北海道大学調査団「北大遺跡について」(昭和30年,北方文化研究報告10所収),吉崎昌一・岡田淳子編「北大構内の遺跡3」(昭和59年)がある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7007818 |





