100辞書・辞典一括検索

JLogos

33

新町②
【あらまち】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治初年~明治22年は鰺ケ沢(あじがさわ)を冠称。江戸期は津軽四浦の1つ鰺ケ沢町のうちの1町。鰺ケ沢湾西方に位置する。北方には日本海が広がり,南方には丘陵地が広がる。「梅田日記」によれば,元和元年に鰺ケ沢新町派立が取り立てられたという(県租税誌)。「平山日記」でも,元和2年の記事の中に,「鰺ケ沢堀切之城〈去年春立て也〉成就仕候ニ付,新町派立成立之為,地子銀御免被仰付候」と見える。また,寛永8年に天竜山を崩して新たに町をつくったので新町と称すともいう(鰺ケ沢町史)。慶安2年の絵図に町名が見えている。江戸初期当地方を支配した津軽百助は,慶安4年新町漁師派への諸役を免除している(鰺ケ沢町史年表)。また,明暦2年当町では地子銭以外の諸役が免除されたという(津軽史)。寛文11年当町は藩より塩町に指定され,鰺ケ沢での塩取引を一手に担わされ,藩の流通統制機構の一端の役割を果たすようになった(御定書)。「津軽史」によれば,塩船着岸のため,湊の整備をも当町の町役として行っている。また,延宝2年の新町派組頭中の上申書によれば,塩1俵につき銭2文を見せ賃として徴収されている(津軽史)。「貞享4年検地水帳」によると当町の家数46,屋敷地1反7畝10歩,分米10石6斗6升7合。元禄16年の絵図では34軒とある。当町は塩町であるが,居住者には元禄8年の「国日記」に海士善左衛門の名が見えるように,漁民も多く居住していた。また,元禄2年には新町の十右衛門が酒造業廃業を申し出ており(国日記)。流通上は塩統制の役目をもちながら,漁家・商家が混在していたことがわかる。嘉永3年松浦武四郎の「東奥沿海日誌」では荒町と記され,裏町があると記している。元治元年の岩崎村弁天宮奉賀帳には,新町町人として伝法屋・塩屋・川口屋・山本の名が見られる。慶応2年浜町からの出火で,新町は全焼した。寺院は,当町の東部に浄土真宗本城山願行寺がある。同寺は承応元年善教によって草創されたという(元禄14年浄土宗一派縁起)。明治初年の戸数40,町域は「上は釣町より下は浜町に至る,南に折て本丁一丁目の頭に至る長二丁十九間五尺幅四間二尺五寸」という(国誌)。明治22年市制町村制施行により成立した鰺ケ沢町に所属。大正4年の戸数47・人口275。世帯数・人口は,昭和40年84・365,同45年70・285,同50年64・246,同59年56・170。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7009876