大深内村
【おおふかないむら】

(近代)明治22年~昭和30年の上北郡の自治体名。八甲田山系のすそ野にあたる緩やかな丘陵と,それに続く三本木原台地に位置する。北を砂土路川が流れる。大沢田・立崎・八斗沢・馬洗場・洞内(ほらない)・深持の6か村が合併して成立。旧村名を継承した6大字を編成。役場を洞内に置いた。村名は集落の大きい大沢田・深持・洞内から1字ずつを取って命名した。明治24年の戸数473・人口3,618,厩472,学校4(徴発物件一覧)。江戸期から経済的にも文化的にも七戸町に依存していたから,村長の多くは七戸出身者によって占められていた。そればかりでなく,田畑の3分の1は七戸・三本木両町の地主所有であったし,軍馬補充部三本木支部によって,村内の農耕適地が次々に買い上げられていった。そうでなくても山林・原野の大半が国有地とあって,農民は零細化した。貧農のなかには,日雇いもしくは北海道への出稼ぎによって生計を補わなければならない者もあり,経済的自立を図ることが望まれていた。深持では,明治38年小増沢用水の完成を機に,「カメ田」と呼ばれる粘土客土法による開田を行い,洞内地区では同39年青森県最初の耕地整理が砂土路川で始められた。大正3年には,前年の凶作に対する救援金をもって,村内要地に共同作業場を建設した。また同年に深持信用組合,同8年に深持財産区,同10年に大深内信用組合が設置されていった。一方で明治25年牛鍵尋常小学校(同26年早坂尋常小学校と改称)立崎分校・深持尋常小学校熊ノ沢分校が,同31年深持尋常小学校晴山分校がそれぞれ開校した。大正11年には大深内村学事会を組織し,教育視察・運動会・学事研究などに補助を与えるなど意欲をみせたが,昭和2年学校建築にからんで深持地区対洞内地区の対立が表面化し,ついに学校新築を取りやめ役場新築となった。同4年大深内村教化団体聨合,翌5年村青年団・処女会を組織したが,不況のため農民の村税滞納が甚だしく,ついには小学校教員・役場吏員の俸給を全面的にストップさせなければならなかった。昭和6年から同10年にかけての冷害,ことに9年の冷害,10年の冷水害による損害額は48万6,000円にものぼり,精神的・経済的に大きな打撃となった。零細農家の借金は極点に達していた。これを7年間の年次償還で返済しようと,各集落ごとに負債整理組合を設立していった。また昭和11年八斗沢の原野に県営大深内集団農耕地を実現させ,大沢田の一部と浦野館村大浦(現上北町)の一部を合わせて大字豊ケ岡が成立。地名は豊かな模範農村をめざして名づけられた。その後,一時畜産・蚕業が盛んになりはしたが,戦争の激化によってどれも竜頭蛇尾に終わった。敗戦後,農地解放・国有林払下げが実現し,豊平・東栄・清水・大崎・十美岡などの開拓集落が作られた。昭和23年には,大深内・深持・開拓・上北協和の各農協が設立され,営農もようやく一人立ちできるようになった。以降農民の開田にかける意欲は目覚ましく,また同26年深持牧野農協,同29年深持生産森林組合を設立するなど,畜産・林業の振興をはかり,一望田園の美観を呈するに至っている。大正9年の世帯数644・人口4,975,うち職業別人口は農業4,765,工業38,商業74,交通業22,公務・自由業56,その他の有業17・無職業3。世帯数・人口は,昭和11年759・6,475,同30年1,332・9,505。三本木町との合併に対し,浦野館村や七戸町への分村を求める動きがあったが,結局昭和30年三本木市の一部となり,村制時の7大字は同市の大字に継承。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7010245 |





