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中町
【なかまち】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は黒石城下の1町。黒石陣屋の東北に位置し,南は前町,北は浜町に接する。町人地。明暦年間,横山甚右衛門が甚右衛門派を開き,そこから分かれたという。大鰐から浪岡に至る乳井通(東根小道)は陣屋西側を北上し,上町と元町の間から上町・横町を経て当町を通っている。元禄7年の御国中道程之図では当町中ほどに「従是浜街道」と記される。当町は造酒・呉服・米を中心とする商人町として発達した。享保年間の黒石府家之図には浜町と合わせ屋敷数26が見える。町内には,黒石津軽家の御用達として米穀と味噌・醤油・塩・油の製造・販売を営んだ高橋家が居住した。高橋家は宝暦13年頃屋敷を新築したが,同家屋敷は切妻造妻入りで「こみせ」をもつ江戸中期の代表的な商家建築で,現在国の指定重要文化財とされている。また町内にはほかにも軒を張り出した「こみせ」を保存した古い形式の商家が並んでいる。文化3年の黒石火消組五ケ組(浅瀬石川郷土志)では横町・浜町・株梗木横(ぐみのきよこ)町を統轄する中町組を組織していた。明治初年~明治22年は黒石を冠称する場合もあった。明治初年の「国誌」によれば,町の規模は長さ2町12間・幅3間1尺,また当町のほどから東の裡町(裏町)に通じる下裡町之小路は長さ45間・幅1間3尺,戸数48(うち下裡町之小路1)。同17年の戸数53・人口272(烏城志)。同22年黒石町,昭和29年からは黒石市に所属。明治23年の当町の規模は,東西1町5間・南北2町22間,家屋数32,倉庫26。戸数・人口は,同28年47・288,大正元年58・308。昭和50年の人口162,同55年の人口144,就業人口は第1次産業1・第2次産業11・第3次産業59(黒石市の統計)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7012122