名久井通
【なくいどおり】

旧国名:陸奥
(近世)江戸期の八戸藩の通名。同藩の郷村支配のための地方行政区域の1つ。三戸郡のうち。名久井岳の東北に位置し,北部を馬淵(まべち)川が貫流する。東は八戸廻・長苗代通,南は軽米通,北と西は盛岡藩領五戸通・三戸通に接する。「雑書」によれば,正保3年11月5日に名久井代官が任命され,名久井村に代官所が設置されたが,「直房公御一代集」の寛文五年御分地郡村小高帳之写には,名久井代官3,000石とあり(概説八戸の歴史),八戸藩創設と同時に,名久井代官所を引き継ぎ,その管轄区域を名久井通と命名したものと思われる。当時の名久井代官管轄の村々は,苫米地(とまべち)・小泉・法師岡・小中野・杉沢・花崎・福田・剣吉・斗賀・虎渡・森越・名久井・中野の13か村,総高3,591石余(同前)。「元禄10年高帳」では,名久井通村として上名久井・高瀬・平・下名久井・取舌内・鳥谷・法光寺・泉清水の8か村,中野通村として大森・市ノ沢・中野・泥障作の4か村,杉沢村として埖渡・杉沢の2か村,苫米地村として片岸・高橋・麦沢・苫米地の4か村に内訳して記載されている。名久井通という呼称は通常八戸藩の五通の1つとして用いられたが,名久井村をさす場合と,ほかに名久井通のうち馬淵川右岸の地域をさす場合もあり,この場合には馬淵川左岸地域は剣吉通とよばれた。代官所は当初上名久井村にあったが,その後廃止され,代官は八戸城内で執務し,必要に応じて上名久井へ出張した。「八戸藩日記」宝暦6年正月11日の条に,名久井代官江刺安右御門が御免となり,梶川八郎兵衛・船越三蔵に長苗代名久井通代官を命ぜらるとあり,その頃から代官は長苗代名久井通代官として任命されたものと思われる。代官は2名でそれぞれ1通を分担したと考えられ,常時は名久井通,長苗代通と従前どおり2通に区分された名称が用いられていた。「八戸藩日記」によれば,名久井通検地は延宝2年を最初とし,大小10数回にわたり行われている。高は「貞享高辻帳」3,368石余,「元禄10年高帳」7,790石余,「天保郷帳」5,197石余。宝暦3年10月18日付の江戸への損毛高報告書では,名久井通御朱印高3,369石余のうち損毛高1,885石余とある(八戸藩日記)。名久井通では剣吉村にだけ庄屋が置かれていたらしく,寛保3年11月6日に,剣吉村庄屋善右衛門が先頃出火の節御制札を残らず搬出した功により藩主から褒美を下賜されている(同前)。藩の御蔵地名主は,苫米地・剣吉・市野沢・名久井・法師岡の5か村に置かれていた。藩の知行地には,それぞれの知行主により知行地名主が任命されていた。享保9年間久井通23か村年貢上納状況(概説八戸の歴史)によると,御蔵高3,041石に対して諸引を控除した上で砂金3,608匁余と銭15貫文余が賦課されている。また年貢率は享保10年25.4%,明和4年22%に当たるという(同前)。人口は,寛延2年の宗門改総人数3,606人(八戸藩日記)。天保4年御蔵給所総百姓人数1,018人(同前)。藩は延宝7年6月13日,盛岡藩五戸代官所からの申入れにより,葛引(くずひき)は立山(たてやま)以外の所とすべき旨の触を出している(同前)。これ以降百姓たちは,藩に願い出て許可を得た上で山菜取りを実施するようになった。元禄5年は獣荒れ・強霜による凶作年であったが(八戸藩勘定所日記),名久井通が特に被害が大きかったとみられ,翌6年3月5日上下名久井村百姓たちが飯米がなくなったので葛・蕨・蕗・薊などの掘取りを願い出て許可されている(同前)。享保13年名久井通の損毛高は2,175石余,うち田形水押1,025石余,田形永代荒201石余,畑方水押855石余,畑方永代荒63石余,流家10軒,流橋大小30か所,流死馬12疋,流用水堰250間,流大木1本,山崩2か所(八戸藩日記)。宝暦3年の損毛高は,名久井通御朱印高3,369石余のうち1,885石余,内訳は1,562石余が田形青立霜枯,308石余が風損霜枯水押,14石余が川欠となっている(同前)。宝暦5年の大飢饉を経た翌6年の荒地大凡書上書では,名久井通は高3,425石余のうち荒地905石余となっている(同前)。なお,同年5月名久井通の死絶者は37人と報じられている(八戸藩勘定所日記)。寛保3年9月15日の条に,御買米八戸廻へ700駄,御買大豆長苗代通へ240駄,名久井通へ160駄の割付を出すとあるから,このころから藩による御買米・大豆の買上げが活発になってきたものと思われる。延享4年の惣馬改相済書上では,名久井通御蔵1,260疋とある(八戸藩日記)。明和3年の名久井通の牛数は御蔵32・給所31(同前)。「八戸藩日記」寛文12年11月11日の条に名久井通で雉子狩とあり,また宝永元年正月21日の条では,八戸廻・長苗代通とともに名久井通にも鳥見役が派遣されている。正徳2年11月26日には,名久井通へも雉子追鳥奉行が出立し,12月4日までに名久井通で12羽をとりあげている(同前)。文化2年11月4日には献上雉子猟の村割りが行われ,名久井通では,苫米地は苫米地・小泉・高館・乙金沢・片岸の出人足は,剣吉境は剣吉・斗賀・虎渡の出人足,上名久井は宮野・作和・高屋敷・妻神・長根・青鹿・鳥屋の出人足,下名久井村は下名久井・五日市・平の出人足,福田は福田・森越の出人足,法師岡は法師岡・杉沢・埖渡の出人足とされている。「八戸藩史料」寛文7年2月の条に名久井岳にて鹿狩を催したとあり,これが名久井通の野獣狩の初見。文政5年6月27日の条には名久井通の総百姓と総乙名が,年貢金や諸出金を従来の産物買上切手ではなく正銭で上納するよう藩から命じられたため,その撤回を嘆願して名主や大下書のところへ押し寄せたとある(八戸藩日記)。天保5年正月9日久慈近村からの百姓一揆勢が八戸へ襲来し,13日鎮撫されたが,翌14日の朝,名久井剣吉通の百姓も同調して多勢押し寄せ上久保の下付近で鎮撫されている(同前)。明治初年の「国誌」によれば,当通の村々は青森県第9大区7・6・3・1小区に属している。現在の八戸市,三戸郡福地村・名川町・南郷村の一部にあたる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7012147 |





