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野辺地通
【のへじどおり】


旧国名:陸奥

(近世)江戸期の盛岡藩の通名。同藩の郷村支配のための地方行政区域の1つ。北郡のうち。「邦内郷村志」では野辺地県と見える。下北半島基部に位置し,陸奥湾に面する。当通の設置年代は未詳であるが,「岩手県史」5では,寛文6年~天和3年の総検地実施過程で確定されていったものと推定している。しかし,「邦内貢賦記」の天和2年のものと推定される記事には当通の名は記載されておらず,七戸通のなかにのちの当通の所属村が含まれている。天和2年に領内の各通に代官が置かれたといわれるが,野辺地代官は,寛文5年に七戸代官の野辺地忠左衛門と藤村源兵衛が兼任したとあるのが初見である(郷村古実見聞記)。しかし,元禄4年七戸代官野辺地忠左衛門が野辺地代官の兼任を辞退したので,はじめての専任代官として七戸給人西野八右衛門が就任した(同前)。「邦内郷村志」によると,所属村は野辺地・有戸・馬門・横浜の計4か村,総高は1,441石余,安永5年の戸数764,寛政9年の馬数140。「本枝村付並位付」では,享和3年の所属村は野辺地・有戸・横浜・馬門の4か村,家数649。「天保8年御蔵給所書上帳」では村数10,総高は1,502石余で,うち御蔵高1,169石余・御免地高39石余・給所高293石余。なお,「邦内郷村志」によれば,野辺地村に櫓門のある税官所が設けられていた。「本枝村付並位付」によれば,野辺地村の城内に代官所仮屋,野辺地町に遠見番所・野辺地湊,有戸村の本村に駅場・馬門村に弘前藩領との境番所があるとみえる。野辺地湊は明和年間以降御登せ銅・御登せ大豆・俵物等の積出湊として繁栄し,町内には古くからの5日市に加えて9日市が立てられ,貞享2年に酒屋5軒,安永年間に商人宿が本町6軒・新町3軒・浜町2軒・往来宿新町2軒があり,また醸造業・呉服太物商9軒,問屋仲間議定書に名を列ねた廻船問屋9軒を数えている。陸路の里程・駄賃は享保4年で七戸より野辺地まで5里29町余,本馬218文・軽尻144文,夫賃109文,野辺地より有戸まで2里8町余,本馬80文・軽尻53文,夫賃40文であった(野辺地町郷土史資料・野辺地町郷土史年表)。町役人は「郷村古実見聞記」の延享4年野辺地通御検地之事に検断・肝入と見え,ついで享和4年写御仮屋年中行事に検断・宿老・老名がみえ(野辺地町郷土史資料),老名を馬門・有戸・横浜では肝煎と称したとある。いずれも有力町人が任じられた。ついで馬門村は野辺地のもと村と伝えられ,野辺地湊・宿駅の繁栄に加わり,安永年間の商人宿1軒,幕末の駄送馬150頭が飼養されており,村役人として肝煎・御境古人・御山先が置かれていた(同前)。有戸村は,駅場で,有戸より横浜までの里程4里26町余,享保4年の駄賃は本馬175文・軽尻118文,夫賃86文であった(同前)。村の東方に蟻(有)戸野があり,元禄12年の新絵図に書載御書上の野牧として見える(郷村古実見聞禄)横浜村は,安政治5年の「仮名付帳」に駅場とある。「郷村古実見聞記」では正保2年横浜浦,元禄12年横浜湊と書き上げられている。江戸初期から後背の桧山を流れる三保川の川口湊として栄えた。三保川はもと古館の南東岸を流れて外堀の役割をなし,俵物も多く問屋もあった。安永年間の往来宿2軒・商人宿2軒・横浜より田名郡までは6里22町余,駄賃は本馬253文・軽尻67文,夫賃27文。村役人として有力町人による肝煎が置かれた。特産物は,「邦内郷村志」では鰈・スボヤ・ホヤ・モズク・海膽・帆立・大鮫・コノコ・有戸石・瑪瑙があげられ,文政4年の南部盛岡藩御領分産物書上帳(郷土史叢3)では野辺地村・馬門村・横浜村の煎海鼠,馬門村のコノコ・帆立貝・大鮫,有戸村の鰈・帆立貝,野辺地村のホヤ・カゼ・藻ずく・ざり蟹,諸村の紫根が記される。明治初年の「国誌」によれば,当通の村々は青森県第7大区1対区に属した。野辺地湊・町場を中心にしてまとまっていたが,明治12年野辺地村・馬門村・有戸村は野辺地戸長役場に,横浜村は横浜戸長役場に属した。現在の上北郡野辺地町・横浜町の一部にあたる。




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「角川日本地名大辞典」
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