角川日本地名大辞典 東北地方 青森県 46 八戸藩【はちのへはん】 旧国名:陸奥 (近世)江戸期の藩名。陸奥国三戸郡八戸に居を構え,八戸を中心として陸奥国北部を領有した外様小藩。寛文4年9月盛岡藩3代藩主南部重直が嗣子決定をみないうちに死去したため,同年12月幕府は遺領10万石をいったん収公し,あらためて弟重信に盛岡8万石,弟直房に八戸2万石を与えた。これによって南部直房を藩祖として八戸藩が成立した。直房は盛岡藩から2万石を分与されたのではなく,幕府から新たに領地を与えられた形となったのであるから,厳密にいえば盛岡藩の支藩ではない。以後八戸を居城とし(ただし,八戸藩主は代々無城主=陣屋持で,天保9年信真の時から城主格となった),直房のあと直政(側用人)―通信(盛岡藩主重信四男)―広信―信興―信政―信房―信真(信房弟)―信順(鹿児島藩主島津重豪八男)と9代にわたって在封し,明治維新を迎えることになる。所領は実際には寛文5年2月15日に確定し,領知目録によれば,三戸郡内1万585石余,41か村(八戸・虎渡・剣吉・名久井・中野・森越・福田・斗賀・苫辺地(とまべち)・杉沢・法師岡・島森・田代・晴山沢・平内・白金沢・鳥谷部・是川・松館・十日市・角柄折・妙・新田・浜町・道仏・中居林・石堂・小中野・類家(るいけ)・櫛引・根城・田面木・売市(うるいち)・川原木・長苗代・尻内・矢沢・根市・大仏・花崎・小泉),九戸郡内6,225石余・38か村(江刈・葛巻(くずまき)・戸田・新屋・山根(さんね)・小倉・伊保内(いほない)・長興寺・江刺家(えさしか)・山屋・上館・狄塚(えづか)・山内(さんない)・沢里・円子(まるこ)・軽米(かるまい)・晴山・高家(こうげ)・蛇口・戸呂町(へろまち)・帯島・夏井・閉伊口(へいのくち)・鳥屋(とや)・大野・大崎・門前・小久慈・南山形・荷軽部・川井・繋・長内(おさない)・長久寺・有家(うけ)・中野・種市・大川目),紫波(志和)郡内3,190石余・4か村(片寄・稲藤・大館・平沢)の合計3郡83か村・2万石。「貞享高辻帳」では三戸郡41か村・1万428石余(田6,125石余・畑4,003石余),九戸郡38か村・6,806石余(田2,802石余・畑4,004石余),紫波郡4か村・2,764石余(田2,505石余,畑258石余)の計83か村・2万石(田1万1,434石余・畑8,565石余)。「元禄10年高帳」では84か村(ほかに領内村として70か村を記す),4万2,599石余(田2万4,509石余・畑1万8,089石余)。なお,三戸郡は現青森県,九戸郡・紫波郡は現岩手県に属す。領内惣検地は延宝3年6月に実施され,享保2年正月に幕府に対して領内改新田高5,030石余と上申している。この検地による内高は,九戸郡が軽米代官所7,000石・久慈代官所5,000石,三戸郡が長苗代(ながなわしろ)代官所7,500石・浜通代官所7,600石,紫波郡紫波代官所5,000石の計3万6,200石といわれる(八戸市史)。当藩の成立に際して,藩士は盛岡藩から津村喬光をはじめとする21名が配当され,また両藩協議のうえ新規採用したのは小田島久兵衛など31人で,当初は合計52人であったという(八戸藩史料)。2代直政の代には,家臣団は500石以上2名,400~300石6名,250~100石30名,100石以下213名など合計291名(岩手県史5)。寛保3年の軍役人数は,一ノ先一ノ手292人,二ノ先二ノ手257人,駐隊133人,御旗本606人,総御後締り駐隊142人など合計1,484人,惣小屋数87とある(八戸藩史料)。寛文5年3月八戸三日町に初めて制札場を設置し,八戸城下の整備と領内支配に着手した。領内支配にあたっては,八戸城下に町奉行,農村では三戸郡名久井通・長苗代通・八戸廻(浜通),九戸郡軽米通・久慈通,紫波郡紫波通の各通を設けてそれぞれに代官所を置いた。ただし,代官所は江戸中期までに大部分が廃止され,城内で代官が執務するようになる。また,八戸城下に町役人として町検断を置き,村々には肝入を任命して地方支配にあたったが,元禄7年10月町検断は庄屋,肝入は名主と名称変更が行われた(同前)。土地制度上の特徴としては,田1反は300坪(歩)であるが,畑一反は900坪(歩)であることが注目される。また,一般には畑の場合は反の表示は使わずに役という場合が多く,畑3畝を1ツ役といい,1畝は17間×16間で積算した(八戸市)。天災は,記録上確認できる延宝2年3月の八戸大地震,同3年の旱魃をはじめとして数年ごとに襲われ,これらは藩財政の悪化に拍車をかけていった。これに対して藩は,元禄9年には米の津留を施行し,同14年の不作に際しては家臣に100石につき10両の貸上げを命じ,また同15年正月には大規模な知行換を実施した(八幡藩史料)。宝暦7年には家禄改が行われ,家老300石,御用人150石2人扶持。御役人100石などとなっている(同前)。藩財政の状況を延享4年の「八戸領高米金合払」によってみれば,所領は紫波通6,782石余・八戸廻(浜通)9,070石余・名久井通5,642石余・久慈通4,295石余・軽米通6,718石余・長苗代通7,812石余の計4万321石余(本田3万8,140石余・新田2,180石余)で,この内訳は給所高1万2,808石余・蔵入高2万67石余・蔵入高および江戸御台所米並御日用金高6,621石余・野馬飼料並所々伝馬一里番其他免高823石余となっており,蔵入分の収入は年貢米6,601駄(片馬),同砂(金)22貫余があったが,支出は慈照院仕切米並総家中足軽常番職人切米扶持米3,965駄(片馬),納戸金1,760両で,残分は金17両余とある(八幡藩史料)。藩領の人数は,元禄8年に家中諸士家族1,172・足軽家族617・代官所支配百姓3万496・家中および寺社奉公人(給地百姓)2万1,515・町家2,886・寺社人1,539・座頭282の計5万8,507(同前)。寛延2年には,家中2,833(うち家中手廻1,676・家中召使445・足軽鉄炮712),寺社人など2,001(うち出家158・山伏1,120・社人49・座頭310・諸役人手廻364),百姓6万2,384(うち蔵入地百姓3万7,682・家中拝知百姓2万4,315・諸寺院召使門前百姓387),町人4,075,会所番人鐘付59の合計7万1,352(八戸市史)。維新変革に際して,当藩は東北諸藩とともに奥羽列藩同盟に加わったが,あまり積極的ではなかった。明治元年9月奥羽列藩同盟は官軍に敗北した。しかし,宗家の盛岡藩が領地没収の処分をうけたのとは対照的に,当藩の存続は許されることになった。これは,藩主信順が鹿児島藩主島津重豪の八男であったことにもよるのであろう。明治初年の「藩制一覧」による当藩の概況は,表高2万石,草高(内高)4万74石,甲子(元治元年)から戊辰(明治元年)まで5年間の平均収納は元租が米6,031石余・銭9万1,642貫余,雑税が金1万2,660両余・銭3万3,261貫余,村数83,戸数1万3,386・人口6万7,647(男3万5,352・女3万2,295),うち士族の戸数370・人口2,926,卒族の戸数200・人口1,041,神社は130社,寺院53か寺,また兵隊一大隊462人・大砲隊85人を編制していた。明治4年7月14日廃藩置県により八戸県となる。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7012395