角川日本地名大辞典 東北地方 青森県 33 広須組【ひろすぐみ】 旧国名:陸奥 (近世)江戸期の弘前藩の組名。貞享4年の総検地後,遣に代わって新たに設置された行政区域25組の1つ。津軽郡田舎庄のうち。津軽平野の北西部,岩木川の下流左岸に位置する。広須遣の系譜を引くものとみられ,代官所は,当初木造(きづくり)新田の木作村に置かれたが,正徳5年当組の鶴田村に代官所が置かれた。貞享4年検地の水帳数覚によれば,村数22。元禄2~3年に当組から木造新田が分立したともいう(西津軽郡史)。元禄3年の所属村は,広須村・掛落林(かけおちばやし)村・竹田村・小幡村・鶴泊村・笹森村・大性村・菖蒲川村・木筒村・亀田村・桑野木田村・野木村・姥島(おばしま)(姥ケ島(うばがしま))村・川端村・花巻村・大畑村・林村・薦槌(こもつち)村・西広森村・亀岡村・館岡村・木筒木村・牛潟村・越水村・吹原村・荕岡村・広岡村・鶴田村・大口村の本村22か村・枝村8か村の計29村で,代官は一戸左五衛門と笹佐次右衛門(平山日記)。享保12年には,当組の新田村は広須新田とも総称され,そのうち広須通りが23か村,山通りが33か村,川通りが32か村であった(同前)。なお,ほかに木作通り35か村も広須新田のうちとして記されるが,これは当組から分立したといわれる木造新田の所属村にあたる。同13年の組替えによって藤代組の玉川村など4か村が当組に編入された(同前)。宝暦~明和年間頃は,親村28・寄郷36,庄屋28・五人組81(弘前市史)。明和元年の藩律によれば,組内の村数62,戸数1,500余,人口1万4,480余とある。寛政改革の藩士土着政策によって,組内62か村のうち7か村に在宅藩士が居住した(御家中在宅之族村寄)。寛政8年の津軽郡諸組民力消耗表(県租税誌)に,組内の面積は田方1,340町4反・畑方201町,貢米1万3,709俵,給地高293俵,高懸畑銀納6貫373匁,人口5,535・戸数878,馬1,348とある。明治2年の諸組村寄帳(弘前図書館郷土資料目録7)には,所属の村として広須村・広萢村・桃井村・金田村・上古川村・鷲坂村・下古川村・大原村・芦屋村・川除村・小曲村・桑野木田村・川端村・豊田村・今市村・出野里村・芦部岡村・橘村・沼崎村・本増村・野末村・豊川村・楽田村・家調村・下家調村・繁田村・穂積村・鶴見里・細沼村・福富村・下富萢村・下富萢派・沼館村・沼館派・語村・緑川村・吉出村・上木作村・吉岡村・升館村・蓮沼村・沖萢村・玉水村・末吉村・稲盛村・近岡村・芦沼村・永田村・吉水村・蓮川村・永岡村・兼館村・岡部里村・生田村・善積村・石館村・堅固村・先年村・再賀村・再賀派・蓮花田村・姥島村・下中野村・出崎村・沖善津村・夕日岡村・下繁田村が見え,ほかに桑野木田村の枝村として漆派・小和巻,下富萢派の枝村として中派があげられている。明治6年の大区小区制への移行に際して,組内の村は青森県第4大区6・7小区に編入された。現西津軽郡の木造町・柏村・車力村と北津軽郡の板柳町・鶴田町の一帯に比定される。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7012679