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岩手県
【いわてけん】


(近代)明治5年1月8日~現在の県名。巌手県とも書いた。盛岡県が改称して成立。盛岡県と称すると旧藩の因襲から脱け難いとの申請をうけて改称され,県名は県庁が岩手郡盛岡に置かれたことにちなむ。成立時の管轄は,陸中国の九戸・紫波(しわ)・岩手・閉伊(へい)・和賀・稗貫(ひえぬき)の6郡,草高約25万3,000石,村数494,人口31万9,486を引き継ぐ。耕地は旧慣反別で明治7年3万1,133町・大縄反別343町,内訳は田約1万9,000町・畑約1万1,800町。県務は島参事によって執行された。島は明治5年岩手県権令,同6~17年は県令に任命されていた。明治5年旧県出張所は縮小され,宮古・久慈のみに存置された。6郡は59区に分けられていたが,同年21区,同8年17大区224小区となり,同年には81の扱所が置かれ,原則として1扱所に戸長・副戸長・書記が配置されることになった。明治6年正租以外の諸税目を統一し,県内の正租となる米・金および雑税額は,明治5年8万9,245石余・5,694円余・2万4,667円余,同6年10万5,372石余・723円余・1万9,442円余,同7年10万7,547石余・145円余・6,842円余。明治6年1~12月の県の歳出は,米2万3,084石・金8万7,583円,内訳の主なものは官吏給料1万7,923円余・開墾掛月給1,572円余・第一常備費1万1,522円余・捕亡入費1,728円余・用水路工事費6,662円・再検地入費5,313円・貢米運輸倉庫修繕費4,508円・県庁営繕費1,847円・小野伝兵衛ら3人へ貸出金6,459円・尾去沢銅山経営者村井茂兵衛へ貸出金3,641円余と家禄米2万5,119石余となっている。なお家禄米は同7年からは県会計外となった。勧業策がとられているが,農業では米・大麦・小麦・粟・稗・大豆・小豆・蜀黍・大角豆・茶豆・氷割米・蕎麦などの産物があり,また同8年種芸所の開設により,翌9年には桑8万8,200本・桐6万325本・楮2万2,000本が植え付けられ,ほかに果樹類などの栽培も奨励されていた。なお明治6年には機業の振興を目的とした勧業試験所の設立をみた。鉱山も明治6年には4鉄鉱山を官営とし,翌7年1鉄鉱山のみ官営となったが,ほかに試掘中の鉱山には金山14・銀山2・銅山32・鉄山41ほどがあった。畜産では,明治8年牛1万6,723・馬6万3,045となっている。小学校・児童数は明治6年8月88・1,812,同年12月99・6,756,同7年148・8,781。なお明治6年12月段階の学齢児数は4万8,463人という。同年の医師数は258。同7年4月頃から県内で購入されている新聞は日新真事誌・海外新聞・横浜新聞・報知新聞・日報社新聞・朝野新聞・新聞雑誌の各紙であった。同8年の寺社数は,寺院283,神社837うち県社1・郷社21・村社311・諸社504。明治5年1月15日2小隊160人の盛岡常備隊は仙台の東北鎮台本営に移駐を命ぜられ,盛岡城の盛岡分営は閉鎖となる。また同7年台湾出兵にともない県内から旧藩士約700人が志願をしているがこれは認められなかった。同9年3月県庁聴訟課を岩手県裁判処と改称した。同年4月18日磐井県のうち磐井・胆沢(いさわ)・江刺の3郡を合併。これにより101か村,2万8,535戸・17万806人,耕地3万7,744町が新たに加えられることになった。県内9郡になって宮古・久慈両支庁が廃止され,一関支庁が設置され,同年5月19日に開庁した(のち磐井支庁と改称)。一関は同9年4月18日,5月9日に火災にあい,この2回で市街の約3分の1にあたる457戸が焼失した。同年5月25日青森県二戸郡・宮城県気仙郡を合併,ここに現在の岩手県が成立する。県内11郡の村数642,戸数10万2,913・人口57万2,718となり,同11年までは23大区276小区に分けられ119の扱所が置かれた。同12年郡の再編が行われ,南岩手・北岩手・紫波・稗貫・東和賀・西和賀・江刺・胆沢・西磐井・東磐井・気仙・西閉伊(にしへい)・南閉伊・東閉伊・中閉伊・北閉伊・南九戸・北九戸・二戸の19郡となる。同年磐井支庁は廃止となり,18郡役所・303村役所が置かれ,村役所の303人の戸長は公選となった。同13年郡役所は9か所に統合,村役所は戸長役場に改称(同22年村役場となる),同16年の村数647,同17年323の戸長役場は119か所,42の浦役場は17か所に統合された。県務は島県令(同年転出)・岡部綱紀参事(明治10年県大書記官となる)らによって執行され,明治14年警部長に島田宗正が就任した。同17年内務省大書記官石井省一郎が県令となり,熊本県警務部長野中久徴が本県警部長(同年中山口県警部長山田春三が就任),清宮質が収税長として任命された。同19年7月県令は県知事となった。地租税額は,明治10年49万2,403円余,同11年50万9,103円,同12年の耕地は田4万9,018町余・畑8万2,537町余の計13万1,555町余,宅地は9,652町余,山林原野は51万3,212町余で地租税額は50万8,878円。明治10年の県予算総額19万8,408円うち収入は地租割税9万8,408円・戸数割税10万,支出は地租割税分を土木費3万5,000円・警察2万6,724円・県報など5,470円・建物修繕費2,300円に振り分け,戸数割税分は戸長以下の給料・旅費などの各区諸費用にあてられることになっている。同12年予算の歳入21万2,535円のうち地租割税10万1,210円・戸数割税6万1,325円・営業税雑税5万円となる。同13年の教育費歳出は9万1,337円,小学校数577(うち私立5),教員数1,023(うち女3),生徒数4万7,672(男3万1,551・女6,121),同年岩手中学校が開校。同19年には公立小学校906,生徒数は学齢児10万7,412のうち5万2,184となる。明治16年の戸数10万7,989(うち農業9万7,898・漁業8,129など),耕地は田4万9,261町・畑8万2,816町,民有の宅地9,747町余,同じく山林原野51万5,898町余(官有林は44万6,765町余),牛2万948,馬9万7,399,漁船5,607,物産は米40万5,683石余・麦16万5,865石余・繭1万6,510石余・生糸6,923貫余・真綿2,354貫余・清酒3万8,588石余・塩5万2,064石余・鰹節15万2,866貫・鯣9万372貫・乾魚2万2,269貫・銅16万8,700貫など。同年の商業関係者は卸売商201・仲買商319・小売商1万5,937・雑商1,092の計1万7,549。明治9年の試掘・開坑の鉱山は巌鉄山5(うち官業1)・金山5・銀山5・砂鉄場24・鉄鉱山1・銅山19・硫黄山5など。県学校が閉鎖された明治6年青年有志の者たちが図書閲覧所を開き,これに端を発し政治結社求我社となって自由民権運動に参加していった。県内には他に盛岡の協同社,花巻の大壮社,遠野の開進社,山田の立誠社,久慈の有信社などの結社が生まれ活動した。同14年頃の県内発行の新聞雑誌は日進新聞・雛鳴雑誌・盛岡新誌・東北教育新聞・垂涎奇聞・森ノ下風・芳集雑誌。明治9年明治天皇巡幸により7月に来県。また岩手郡藪川村3,662町が皇室御料牧場となった。同10年西南戦争への出兵志願があり,第8大隊1,000人を編成した。またこの戦争に呼応した真田大古事件では県人6人が処罰された。明治9年地方裁判所制施行により,一関裁判所が設置されていたが,同年中に仙台に移る。なお西南戦争での本県殉難者数は護国神社に合祀されている者54名。明治9年の神社数は県社2・郷社31・村社484・無格社705・境内末社844の計2,066。同17年盛岡市街河南地区から出火,家屋1,430軒・土蔵46・神社6・寺10・学校3,その他建物300余を類焼し,16か町村に被害が出た。明治22年市制町村制施行により,盛岡市と21町219か村が成立。県庁を盛岡市内丸に設置。同30年郡制施行のための廃置分合により,南・北九戸郡は九戸郡,南・北岩手郡は岩手郡,東・中・北閉伊郡は下閉伊郡,西・南閉伊郡は上閉伊郡,東・西和賀郡は和賀郡となり,1市13郡となる。県内では,昭和12年の釜石市の成立をはじめ,同16年宮古市,同23年一関市,同27年大船渡市,同29年北上・水沢・花巻・遠野・久慈市,同30年陸前高田市,同33年江刺市,同47年二戸市がそれぞれ発足した。なお,江刺市の成立により江刺郡は消滅し,12郡となる。平成3年北上市が和賀町・江釣子村を,同4年盛岡市が都南村を合併。昭和30年11市24町48か村,のち統廃合を重ね,平成12年現在は13市30町16か村をかぞえる。人口は大正9年84万5,540,同14年90万984,昭和5年97万5,771,同10年104万6,111。平成12年世帯数47万6,527・人口142万5,135。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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