滝名川用水
【たきながわようすい】

紫波(しわ)郡矢巾町―同郡紫波町―稗貫(ひえぬき)郡石鳥谷町を通る用水路。北上川の支流,滝名川・葛丸川流域一帯を潤す。滝名川筋の用水堰は,寛文12年,27堰認められ,中世,当地方を支配した斯波氏の開削と推定される。27堰の内訳は,水高8石の関根堰,2,753石の高水寺堰(支堰は竹原・夫屋敷・市の町・田中・高見・茶屋・柿木・久保・寺田・的・坂本・西田屋・大林・鉢子田・山伏・北川原・南川原・宮手・久久館・北高水寺・南高水寺など),819石の野沢堰(支堰は野沢・作岡・土城・自光坊・高橋・下野沢・車土手上・車土手下など),40石の弥勒地堰,553石の寺堰,60石の大松堰,100石の八幡堰,50石の川崎堰,70石の馬場堰,25石の御堂堰,492石の上杉の下堰,42石の関口堰,50石の杉の下堰,153石の和田堰,500石の糠塚堰,118石の新田堰,34石の宝木堰,992石の佐藤部堰,25石の梅田堰,96石の京田堰,240石の白欠堰,40石の仁重堰,水高不明の上川原堰,20石の中川原堰,30石の下川原堰,61石の下越田堰,135石の坂本堰などである。27堰は同一水系にあるとはいえ,水利権に大きな差があった。第1に関根堰から馬場堰までは表流水を利用する権利を有したが,それ以下は伏流水(根水)のみの利用となっていること,第2に同一堰内でも常水地区と番水地区の差があり,さらに「せきあい」(堰合)と称する特殊な水利権があったことなどがその例である。このため用水形態は,同じ堰掛かりであっても,表流水掛かり・伏流水掛かり・常水掛かり・番水掛かり・堰合掛かりなど複雑であった。寛文4年の八戸藩分封によって,滝名川用水は盛岡領4,900石,八戸領2,800石の共同となる。寛文12年,旧慣行の厳守,新堰開削並びに堰口の拡張禁止,旧田尊重を原則とする八戸・盛岡両藩の協定が結ばれる(紫波町史)。とはいえ,これは地区の水不足の解決を前提としたものでなかったので,ひとたび渇水に見舞われると激しい水論が戦わされた。寛永年間から昭和15年まで330年間の水争いをたどってみると,実に41回を数え,死傷者が出たこともあった(滝名川物語)。大正末期から昭和初年にかけて,高水寺堰掛かり下流部および北上川本流における機械揚水,鹿妻穴堰の改良,給水地域の編入替えが行われた。山王海ダムの設置運動は,深刻な水不足に悩む志和村を中心に進められ,20数年に及ぶ運動の結果,昭和20~29年着工となる。ダムは堤高37m・堤長144m・貯水量959万m(^3)で,これに結びつく国営農業水利事業は水路延長1万4,360m,受益水田面積3,258ha,国営開拓建設業は入植農家97戸・増反農家1,045戸(受益面積水田406ha・畑197ha),県営灌漑排水事業は水路2,972m(受益面積295ha)を中心とするものである。この事業によって長年の用水問題は一挙に解消した(岩手県農業史)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7015214 |





