羽場
【はば】

旧国名:陸奥
西部は奥羽山脈の支脈の南昌山山塊を背に,南は湯沢森,北は飯岡山に挟まれて東西に細長く扇状地をなし段丘となっている。西部は台地をなし,低地下段との比高が約10m内外ある。開拓は水に制約されて遅れていたのではなかろうかと思われる。地内の下羽場遺跡は平安期のもので,竪穴住居址27棟・焼土遺構3基・溝・墨書土器が発見されている。百目木には小館跡がある。ここは上羽場の台地にあり,北と東は崖,西は空濠が通じて宅地と畑とになっており,道路と畑の間は少し深い沢となっている。また,字上羽場に板子塚がある。これは飯岡山の南の雑木林の中にあり,高さ2m・径約6mほどの円形の供養塚である。飯要山常法院跡は上羽場にあり,現在宅地となっているが,修験山伏の祈祷寺であった。昔,また大原大明神があったが,明治44年秋葉神社に合祀した。上羽場集落には常法院神楽が伝えられている。砂子(いさご)塚も上羽場にあり,高さ約1m・径約5mの小高い塚で頂きに桜の木が植えられている。これは飯岡城主飯岡庄太郎の娘,砂子姫の塚といわれる。姫は薙刀の達人で,元亀3年この館が斯波安芸守の火攻めにあい落城した際,姫は僅か17歳でありながら大奮戦をして勇名をとどろかせ,遂に討死する。その無念さに討死した姫に甲冑をつけそのまま葬った塚であると伝えられる(村の史跡めぐり)。
【羽場村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【羽場(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7015818 |