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盛岡藩
【もりおかはん】


旧国名:陸奥

(近世)江戸期の藩名。陸奥国岩手郡盛岡に居を構え,陸奥国北部諸郡を領有した外様藩で,はじめは中藩であったが,江戸後期には大藩となる。鎌倉御家人の系譜をひく南部氏(三戸南部氏)は,中世以来,糠部(ぬかのぶ)郡を中心に所領を拡大し,戦国期には津軽地方一円をも支配し,また南は閉伊(へい)郡から岩手郡までも手中に収めていたが,天正18年南部信直は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し,同年7月27日秀吉から「南部内七郡」を安堵された。これが近世大名としての南部氏の出発点であった。ただし,これに先だつ同年3月27日,戦国期において南部氏と内部抗争をひきおこしていた大浦為信が秀吉に謁して津軽一円の領有を認められて津軽氏を称するようになり,南部氏は旧領のうち津軽一円を失うことになった。ところで,先の「南部内七郡」については,和賀・稗貫(ひえぬき)・紫波(しわ)・岩手・閉伊・鹿角・糠部の7郡とする説もあるが,当時和賀・稗貫・紫波の3郡の領有が認められたとは考えがたく,北・三戸・二戸・九戸・閉伊・岩手・鹿角の7郡とみなす通説に従うべきであろう。天正18~19年には旧葛西・大崎領で一揆が起こり,また九戸地方を中心に一大勢力を有した南部一族の九戸政実も九戸城に拠って南部信直に反旗を翻した。しかし,天正19年豊臣政権の大軍がこれらを鎮圧し,戦後信直は和賀・稗貫・紫波の3郡を加増された。この争乱を通じて南部氏はその統一を実現し,また陸奥国10郡10万石の所領を確保し,その支配を確立したのである。三戸南部氏26代信直は,九戸の乱後,世継の利直を三戸に置き,自らは九戸城に移って福岡城と改称した。そして,慶長2年から不来方(こずかた)(盛岡)城の築城に着手し,同4年には居城をここに移した。和賀・稗貫・紫波の3郡を得て領地が南方に拡大したため,居城を領地の中央部に移す必要が生じ,浅野長政に岩手郡の旧不来方城の地を城地とするよう勧められたと伝える(県史5)。しかし,同地は北上川・雫石(しずくいし)川・中津川の合流地点に立地するため,たびたび洪水に見舞われ,その都度三戸城や福岡城に移らざるをえなかった。盛岡城が本格的に完成したのは,やや降って重直の代,寛永10年のことで,名を盛岡城と改めた。この間,慶長4年には信直が没して子利直が遺領を継ぎ,同5年には徳川家康に敵対した上杉景勝に備えるため最上へ出陣した。この最上出陣中に和賀・稗貫郡では和賀氏が,閉伊郡では阿曽沼氏が各々旧領回復を企図して反乱を起こしたが,いずれも最上から帰陣した利直によって滅ぼされている。慶長19年大坂冬の陣に徳川方として出陣,寛永11年徳川家光によって陸奥国北・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・紫波・稗貫・和賀の10郡,都合10万石の旧領を幕府から公認された。同年の領内郷村目録によれば,内高は20万554石余という。なお,現在,北・三戸両郡は現青森県,鹿角郡は秋田県,その他の7郡が岩手県に属している。こうして中世以来の雄族三戸南部氏は,名実ともに盛岡藩主となり,信直・利直のあと,重直―重信―行信―信恩―利幹―利視―利雄―利正―利敬―利用―利済―利義―利剛―利恭と16代にわたって在封し,明治維新に至る。なお,利用を名乗る藩主は実際には2人おり,その事情は,文政3年利敬の跡を継いだ利視の曽孫利用が同4年将軍との謁見を済まさぬうちに急逝したので,重臣らは幕府にその死を秘して,同じく利視の曽孫にあたる三戸信丞の三男駒五郎を替え玉として相続させたためである。所領や表高は,寛永11年以後も若干の変更がある。まず,慶長16年武蔵国岩槻郷5か村を狩猟地として与えられていたが,寛永13年には重直の江戸参府遅参により没収されたという(県史5)。また,寛文4年には重直が嗣子のないまま死去したため,幕府は10万石をいったん収公し,あらためて8万石を重直の弟重信に与えて盛岡藩を存続させ,2万石を同じく重直の弟の直房に分けて八戸藩を創設した。幕府は遺領相続ではなく,新たに領地を与える新恩の形をとったのである。それゆえ,八戸藩は厳密には盛岡藩の支藩ではない。もっとも家臣団は盛岡藩から付けられた者も多く,政治諸制度も盛岡藩のものを準用していた。八戸藩の所領は翌5年2月に確定し,三戸郡内41か村・1万585石余,九戸郡内38か村・6,225石余,紫波郡内4か村・3,190石余の合計83か村・2万石であった。2万石を減じられることになった盛岡藩では,寛文6年から天和3年頃にかけて領内の総検地を実施し,また新田開発を積極的に奨励し,天和3年には領域は変わらぬまま新田加増として10万石に高直しされ,もとの表高10万石に戻った。元禄7年には,藩主行信が弟の南部主税政信(政康)に5,000石,同じく南部主計勝信に3,000石を分知して,幕府の旗本として出仕させた。主税政信は江戸の麹町に屋敷があったため麹町侯とも呼ばれ,知行所は和賀郡内6か村(村崎野・横川目・笹間・飯豊・成田・二子)・4,638石余,二戸郡内8か村(岩屋・駒ケ嶺・大森・浄法寺・吉田・杉沢・里川目・松岡)・361石余の計5,000石,主計勝信は同じく三田侯とも呼ばれ,知行所は和賀郡内8か村(藤沢・黒沢尻・北鬼柳・江釣子(えづりこ)・滑田(なめしだ)・藤根・長沼・笹間)・2,956石余,二戸郡内2か村(川又・長渡路)・43石余の計3,000石となっている(県史5)。これらの知行所のうち,村一円を領したのは村崎野・藤沢の両村のみで,他の諸村はいずれもその村のうちの新田分であった。しかし,宝永4年両氏ともにその給知を盛岡藩からの現石・現金支給に変更され,知行所は再び盛岡藩領に編入された。文化5年利敬の時には,蝦夷地東部の警衛を幕府より命じられ,所領はそのままに20万石に格上げされた。内高は20万石あるいは28万石ともいわれたものの,軍役負担は20万石に相応して課されることになったため,当藩にとっては過重な負担となった。文政2年には幼少の藩主利用を補佐するため,5,000石の旗本南部信隣(麹町侯)に6,000石を分与し,合わせて1万1,000石として諸侯に列した。盛岡新田藩と称し,明治2年に七戸藩と改称する。領知高1万1,000石は盛岡藩の蔵米から1万1,000俵が与えられ,知行地を有しなかったが,のち幕末には北郡七戸周辺に領地を与えられたようである。以上のように,いくつかの政治的変化はあり,表高ははじめ10万石,寛文4年に8万石に減少し,天和3年からは10万石,文化5年からは20万石格となったのである。しかし,内高は20万石以上あったといわれる。領内における高や村数などについて「県史」5によっていくつかの史料を次に挙げておこう。寛永11年の領内郷村目録によると,北郡1万320石余・二戸郡1万2,194石余・三戸郡3万6,858石余・九戸郡1万3,026石余・鹿角郡1万4,882石余・岩手郡2万2,780石余・紫波郡2万8,323石余・閉伊郡2万3,284石余・稗貫郡2万3,680石余・和賀郡2万202石余の計20万5,554石余,「邦内貢賦記」にみえる寛永20年改高は田16万2,450石余・畑6万2,091石余の計22万4,541石余,「正保郷村帳」では岩手郡1万429石余(田8,562石余・畑1,867石余),紫波郡1万3,868石余(田1万1,964石余・畑1,093石余),稗貫郡1万2,867石余(田1万1,291石余・畑1,576石余),和賀郡1万2,162石余(田1万435石余・畑1,726石余),鹿角郡6,617石余(田5,231石余・畑1,386石余),閉伊郡1万941石余(田5,273石余・畑5,668石余),九戸郡6,225石余(田2,790石余・畑3,435石余),二戸郡6,213石余(田3,440石余・畑2,772石余),三戸郡1万6,439石余(田1万297石余・畑6,142石余),北郡4,784石余(田3,125石余・畑1,658石余)の合計10万550石余(田7万2,413石余・畑2万8,136石余)で,内検高は22万2,400石余とある。当藩では寛文6年~天和3年に領内総検地が行われたが,検地がほぼ終了しつつあった天和元年には24万7,676石余と記録され(邦内貢賦記),「貞享郷村帳」では表高と内高が岩手郡1万2,223石余・3万6,971石余,紫波郡1万3,615石余・4万411石余,稗貫郡1万5,112石余・4万2,449石余,和賀郡1万4,290石余・4万4,776石余,閉伊郡1万3,666石余・2万6,066石余,九戸郡646石余・921石余,二戸郡7,743石余・1万3,953石余,三戸郡8,445石余・1万8,013石余,鹿角郡8,272石余・1万8,358石余,北郡の表高5,983石余で内高の記載がなく,合計は表高10万石・内高24万1,921石余(県史5)。新田開発は江戸初期に大いに奨励されて進展し,なかでも岩手・紫波2郡の北上川西部を灌漑する鹿妻堰や稗貫郡の二枚橋新田,和賀郡の松岡堰,同郡の奥寺新田などが代表的な開発である。中期においても,元禄~正徳年間の岩手郡大更(おおぶけ)村の新田開発や享保年間の中野七兵衛による和賀・稗貫両郡における開発などがある。しかし,こうした生産力拡大の努力も元禄・宝暦・天明・天保の四大飢饉などによって相殺され,文化年間の石高は,八戸藩領も含めて28万9,274石余で,江戸前期と比べて農業生産力が著しく上昇したとはいえない。これらの所領の村数は,寛永20年改で688か村(邦内貢賦記),「正保郷村帳」では538か村,「貞享高辻帳」447か村,「安政高辻帳」449か村とある。しかし,表高と内高とが大きく乖離していると同じく,郷村についても幕府へ届け出ている村名・村数と領内で把握されているものとにかなりの相違があった。例えば,「邦内郷村志」で村として把握されているのは708か村で,享和3年の「本枝村付並位付」では末尾に合計村数を「都合」425か村と記しているが,同書に見える村数の実数は725か村を数えることができる。幕府に届けられていない村は「仮名付帳」には枝村と記されているものが多いが,「旧高旧領」に至ってそのほとんどが独立した一村として記載されるようになる。領内で掌握されている村が実質的な村であったのであろう。これらの広大な所領を統治するために,江戸初期には各地に城代が置かれ,また代官区としての通が設けられていた。江戸初期に当藩では,盛岡城のほかに,福岡城・郡山城・花巻城・岩崎城・土沢城・横田城(遠野城)・大槌城・三戸城(現青森県)・野辺地城(同前)・七戸城(同前)・根城(同前)・八戸城(同前)・毛馬内城(現秋田県)・花輪城(同前)などの城館があり,各々の地方の統治の中心となっていた。しかし,福岡城は盛岡城の完成後,寛永年間に廃城となり,岩崎・土沢・大槌の諸城も初期のうちに廃されている。紫波郡の郡山城は,はじめ重臣の中野氏の持城とされ,寛永年間からは城代が配されて大迫(おおはさま)代官など8代官を管下に置いたが,寛文年間には廃されている(紫波町史1)。稗貫郡の花巻城は,仙台藩領と境を接する和賀・稗貫2郡の統治の中心として重要視され,はじめは重臣北氏が配され,北氏が没した慶長18年以後は藩主利直の庶子政直を城主とし,2郡内2万石を給与し,寛永元年の政直没後ののちは花巻城にも城代が置かれるようになった。これら郡山・花巻などの城主・城代にはある程度の行政上の専決処理の権限が与えられていたが,とくに遠野城(横田城)主の遠野南部氏は半ば支藩のようにかなりの独立した統治権が与えられていた。遠野南部氏は,はじめ三戸郡八戸の根城に拠を置いて八戸氏と称した1万5,000石余の大身で,寛永4年閉伊郡遠野に1万2,500石で知行替えが行われ,遠野諸郷のほか岩手・紫波・九戸の3郡に知行地を有するようになった。遠野は旧主阿曽沼氏の浪人も多く,旧葛西領に接していて葛西浪士の出入もあり,大身の八戸氏を城主に置いて安定した統治を行うためであった。その後,寛文5年八戸藩の創設に伴い九戸郡の知行所は八戸藩領となったため,その分は遠野諸郷の検地増高が当てられたようで,遠野南部氏の遠野支配はますます強固なものになり,さながら独立した小藩のような存在となり,代々遠野弥六郎の名を継いで明治維新まで相続された。このように各地の城館は,国境警備の重要性が減少するにつれて江戸前期に多くは廃されていくものの,地方統治の一拠点として存続したものもあり,文化元年の幕府への書上では,居城として盛岡城,抱城として稗貫郡花巻城,要害屋敷として閉伊郡遠野城・鹿角郡花輪城・同郡毛馬内城・北郡七戸城・同郡野辺地城を届け出ている(県史5)。藩の地方支配には,これらの城館とともに各地に代官が置かれていたことはいうまでもない。盛岡藩では,いくつかの代官支配の形態の変化ののち,寛文6年~天和3年の領内総検地の過程において通と呼ばれる代官支配の行政単位が確立していった。領内は33の通に区画され,その33通とは上田通・厨川(くりやがわ)通・見前通・向中野通・飯岡通・雫石通・沼宮内(ぬまくない)通・日詰通・長岡通・伝法寺通・徳田通・八幡通・寺林通・万丁目通・二子通・高木通・安俵(あひよう)通・鬼柳通・黒沢尻通・大迫通・沢内通・遠野通・大槌通・宮古通・野田通・福岡通・三戸通・五戸通・七戸通・野辺地通・田名部通・花輪通・毛馬内通である。はじめは各通に代官所が置かれ,1~2名の代官が任命されたが,享保20年には代官所が25か所に整理され,見前通と向中野通,徳田通と伝法寺通,日詰通と長岡通,八幡通と寺林通,二子通と万丁目通,安俵通と高木通,鬼柳通と黒沢尻通のように,1代官所が2通を兼ねて所管する場合も生じた。なお,遠野通は遠野南部氏の知行地でその取締に委任されたため代官の派遣がなかった。また,通は郡域ごとに定められたものではなく,通によっては2~3郡にまたがる村を管轄することがあった。当藩の藩制上の特徴の1つに地方知行制が明治維新まで存続したことがあげられる。これは,仙台藩・秋田藩などとともに東北大名の共通な特徴をなすが,当藩では領内の生産力の低さとあいまって給人の苛酷な収奪,恣意的な支配に反対する百姓一揆の頻発を生じさせることにもなった。蔵入地と給地の比率は,天和年間の「邦内貢賦記」によると,岩手郡3万5,955石余(蔵入地2万6,416石余・給地9,538石余),紫波郡4万547石余(蔵入地3万4,894石余・給地5,652石余),稗貫郡3万9,495石余(蔵入地2万7,707石余・給地1万1,788石余),和賀郡3万9,729石余(蔵入地2万4,898石余・給地1万4,830石余),閉伊郡2万9,054石余(蔵入地1万241石余・給地1万8,813石余),二戸郡1万4,195石余(蔵入地4,665石余・給地9,530石余),三戸郡1万7,705石余(蔵入地8,749石余・給地8,955石余),北郡1万3,705石余(蔵入地1万232石余・給地3,473石余),鹿角郡1万7,287石余(蔵入地7,090石余・給地1万196石余)の合計24万7,676石余で,うち蔵入地15万4,896石余(62.5%)・給地9万2,780石余(37.5%)となっている(九戸郡の記載はない)。蔵入地の多い郡は,稗貫郡の86%を筆頭に北・岩手・稗貫・和賀の諸郡となっており,北郡を除くと北上川流域の諸郡に集まっている。江戸後期においても,このような蔵入地・給地の比率は大きく変わっておらず,天保8年の改高では総高24万9,575石余のうち蔵入地は13万1,639石余(52.7%),給地は9万3,682石余(37.5%)となっている。戸口は,天和3年には家数4万8,620,寺数357,人数は30万6,032人(男16万7,869・女13万8,163),うち侍手廻5,666・侍召仕1万1,430・御歩行353・御足軽3,591・盛岡町人1万2,324・郡山町人2,167・花巻町人4,654・三戸町人1,491・所々金山1,628,宝暦5年には家数6万2,710,寺数364,人数35万8,222(男19万6,592・女16万1,630),うち侍手廻1万2,184・侍召仕1万556・徒士391・足軽6,179・盛岡町人1万6,909・花巻町人4,563・郡山町人2,438・三戸町人1,632・諸山師2,576(県史5)。当藩の財政は,初期には領内の産金のおかげで豊かであったが,次第に産金も減少し,また米の生産の北限地のため,たび重なる不作・凶作・飢饉に悩まされ,中期以降には財政窮乏が深刻なものとなり,百姓一揆も他藩に比べて多かった。領内は産馬も盛んで,重直の代には藩営の牧場が10か所あったといわれ,幕府や諸大名はすでに慶長年間から当藩に人を派遣して馬を購入しており,当藩ではそれを御馬買役人と称して歓迎した。幕末期にはロシアなどに対する海防のため自領沿岸だけでなく蝦夷地東部を警備することになったが,20万石格上げに見合う人夫徴発や費用の負担は領民を強く圧迫するものとなり,三閉伊大一揆などを引き起こすことにもなった。この海岸防備に伴って製鉄・製砲の必要が高まったが,当藩の大島高任が安政4年洋式高炉による製鉄を成功させて大量生産を可能とし,藩では安政6年に幕府へ延鉄1万5,500貫の献納を申し出ている。その後,当藩では領内通用の鉄銭の鋳造が認められたほか,各種鉄製品の製造が勧奨され,民間で造られた高炉も加えるとその数は10基となり,鉄の量産が飛躍的に進展した。幕末維新の変動に際しては,当藩は奥羽列藩同盟に加わった。しかし,明治元年10月3日藩は維新政府に降伏し,同月10日官軍は盛岡に進駐し,盛岡城を没収した。藩主利剛は東京に召喚されて隠居を命ぜられ,同年12月利恭に相続が許されたが,高13万石に減封されたうえ旧仙台藩領に転封を命ぜられた。新領土は,陸前国柴田郡3万527石余,磐城国亘理郡2万3,587石余・宇多郡7,019石余・伊達郡5,818石余,岩代国刈田郡2万3,539石余・伊具郡3万9,442石余の合計13万石である。こうして盛岡藩は廃藩となったのである。旧盛岡藩領は維新政府の直轄地となり,弘前藩や信濃松本藩・松代藩,上野沼田藩,下野黒羽藩などの諸藩の取締地として預けられた。鎌倉期以来の地から転封され,また減封に伴って3,800人余の家臣に暇が出されるなど大きな変化を余儀なくされた盛岡藩と領民たちは,白石転封後,盛岡への復帰を繰り返し陳情し,明治2年7月,70万両の献金を条件に盛岡への復帰が認められることになった。ただし,13万石の領知高に変更はなかった。領域は,岩手郡3万5,570石・紫波郡4万1,560石・稗貫郡4万2,780石・和賀郡1万90石の計13万石で,村数は162か村(藩では242か村と把握していた)である。これがいわば新盛岡藩の成立である。同年10月,紫波郡の管轄地のなかに八戸藩領分約1,500石が含まれていることが判明し,代わりに江刺郡内3か村が盛岡藩領となった。藩庁は盛岡城内に置かれ,出張所としての部会所が盛岡・沼宮内・日詰・花巻・沢内に置かれた。明治3年7月10日,廃藩置県により盛岡県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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