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荒砥浜
【あらとはま】


旧国名:陸奥

(近世)江戸期~明治8年の村名。本吉郡南方(みなみかた)のうち。仙台藩中奥郡奉行支配。志津川湾北岸,志津川町市街地東方大森崎から明神崎・伏房崎・荒砥崎に至る小屈曲海岸地帯と野島(篦島(ののしま))より成り,袖浜・平磯・荒砥浜・権現などの集落が点在する漁村。地名の由来は荒い砥石のような岩礁の連なる浜という意味と考えられている(宮城県地名考)。「古城書上」によれば,中世末期葛西氏の時代,荒砥城に金内掃部という者が居城し当村を支配していたという。元禄年間の村高324石余(元禄郷帳)。明和年間の戸口126戸(封内風土記)。安永年間の村況は,村高38貫余(田代18貫余・畑代19貫余),知行地7貫余で他は直轄蔵入地。人頭は寛永18年竿答人頭36人から133人に増加,人口は男394・女350計744人,馬130匹,船は五太木船・小舟・小晒船・さっぱ船・かっこ船合わせて107艘。産物は野島(ののしま)の矢柄(やから)竹。御矢師が仙台城下から来て伐採した(安永風土記)。文政年間の戸口116戸742人(本吉郡南方風土記)。幕末の村高は382石余で,安永以来同じである(天保郷帳・陸前国各郡郷村々高帳)。袖浜の荒沢神社は往古大和国竜田神社からの分霊奉祀と伝え,慶長14年藩祖伊達政宗が社殿を再興,社領8石2斗4升を寄進した。文覚上人が境内不動滝に不動明王を安置したので「滝不動」(不動堂,滝山明神)と称したという伝説があるが,明治4年現社名となった(神社明細帳)。当村の曹洞宗平磯山金秀寺は弘治3年然室誾廓開山,本尊釈迦如来像,福島県相馬郡小高町洞慶寺の末寺。字北の又の曹洞宗月入山全慶寺は永正4年希叟元紹開山,本尊釈迦如来像,磐城国根岸村妙光寺の末寺,弘化年間焼失,村民が再建したという(寺院大観)。修験には和光院がある。医師佐藤玄秋は安政3年から慶応2年まで,佐藤長太郎は嘉永6年から明治3年まで寺子屋を開いた(県教育百年史)。明治元年12月高崎藩取締地,以後,桃生(ものう)県・石巻県・登米(とめ)県・水沢県・磐井(いわい)県に所属。同8年志津川村・清水浜の2か村と合併,本吉村の一部となり,以後,本吉村,次いで志津川町の字・通称として使用され現在に至る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7016631