五日町③
【いつかまち】

旧国名:出羽
(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治17年から一時期山形を冠称。江戸期は山形城下のうち。城郭の南部に位置し,東は八日町,西は上町(うわまち)。地内を羽州街道が通る。石関古墳や稲荷塚古墳がある。稲荷塚古墳跡には寿稲荷が祀られている。寛永13年の領地目録(家世実紀)では高1,480石余。「寛文印知集」には五日町村と見える。元禄年間の屋敷数82軒半(検断・組頭・筆役・小走無役12,蔵屋敷1,阿弥陀堂屋敷1,明屋敷1,役屋敷67軒半),家主77,借家・店借37,人数491,高1,283石余,田48町余・畑5町余,百姓76,自身番所1,辻番所2,市日は5の日であったが,現在は市立てはないという(山形城下新古銘細記/山形市史資料40)。天保13年の村山石高帳および「旧高旧領」の高1,492石余。「東講商人鑑」に当町の商人として万金物類升屋源兵衛・松前産物魚集砂糖類卸店鈴木屋彦兵衛が見える。明治6年五日町学校創立,同年6月昭明学校と改称,同8年再び五日町学校と改称,同11年東部進修学校と改称,同20年八日町尋常小学校へ統合。明治11年の一覧全図では,反別71町5反余,戸数95・人口596。明治22年山形市の町名となる。同32年鉄道敷設の時,当町は二分され,多くの部分が鉄道敷地となった。昭和26年の世帯数336・人口1,669。昭和24年と同45年の土地区画整理事業実施により一部が末広町・西田町の各一部となる。昭和40年から同53年にかけての住居表示実施により,上町・香澄(かすみ)町・八日町などの各一部を編入し,同時に一部が春日町・清住町1~3丁目・双葉町1~2丁目・幸町・南栄(なんえい)町1~3丁目・南四番町・上町1~5丁目・若葉町・南館(みなみだて)1丁目・久保田・やよい1~2丁目の各一部となる。昭和42年から同49年にかけての土地改良事業により一部が飯沢・木ノ目田・砂塚・千代田・中沼・中江・南石関・西崎・菅原・立道・豊原・高堂・深町などの各一部となる。昭和53年の世帯283・人口978(住居表示未実施の五日町の世帯11・人口38)。わずかに残る住居表示未実施の五日町も,昭和60年度までに住居表示実施予定である。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7023754 |





