100辞書・辞典一括検索

JLogos

50

市ノ堀用水
【いちのほりようすい】


鬼怒(きぬ)川左岸台地に南北に開削された大規模な農業用水。塩谷郡塩谷町に取水口をもち,芳賀郡芳賀町の東部丘陵地帯の西側を南流し,塩谷郡氏家町から同郡高根沢町の東部―芳賀町―真岡(もおか)市に至る広大な水田地帯の背景となった歴史的な用水路である。その受益地は,氏家町・高根沢町・芳賀町・市貝町・真岡市の1市4町に及ぶ。延長43km,受益面積約2,300ha,組合員2,400名を擁する。旧市ノ堀用水と新市ノ堀用水がある。現在の用水は,逆木用水とともに,佐貫頭首工から取水し,塩谷町風見山田で逆木用水を分岐し,一路南下,同町大久保を過ぎて草川・釜ケ崎の2用水を分離し,旧市ノ堀用水路に流入する。その後引き続き南流し,氏家町押上―蒲須坂―箱森新田―松山新田―松山―狭間田を経て,高根沢町伏久―文挟―飯室―上柏崎―桑窪に至り,芳賀町の八ツ木―芳志戸―祖母井(うばがい),市貝町の赤羽,鴻ノ宿,さらに真岡市の清水から原町新田を経て最末端は八條(旧山前村)へ達する。当用水の開削は,正保3年着工,明暦2年春に約5里の堀割を完成したという(市の堀用水沿革史,昭和53年)。当用水の開削は,宇都宮藩奥平家の藩政強化のための殖産政策の一環としての用水事業で,井沼川の水を利用していた宇都宮藩高根沢の桑久保(現桑窪)・柏崎村・土室村(現飯室)の水不足解消を目的とした。計画・実施に当たっては,奥平織部・奥平図書・斎藤又左衛門・奥平忠右衛門らが関係し,中でも特に桑窪村地頭奥平織部と土室村地頭山崎半蔵に負うところが大であった。10年の工期と延べ10万余人を要した当用水の開削は,当初松川に直結して送水されたともいわれる。水量の豊富な鬼怒川からの引水計画であり,用水路の開設に当たっては,途中経路に当たる喜連川(きつれがわ)藩の了解を得るなど,多大な努力が払われている。当初は,押上・上松山・下松山・狭間田・狭間田新田・土室・柏崎・桑久保の8か村が運営したが,後に長久保新田・蒲須坂新田・箱森新田・谷中新田・根本新田が加わり,構成13か村(幕末・明治期は12か村組合)による市の堀水組合が創設された。押上村は堰元村として水組合村々を統制し,年番制が敷かれ,数多くの規定が作られた。しかし,用水の維持管理はまさに水と人との戦いの歴史であり,延享5年の郡中割による大普請,文久3年の渇水による番水制の採用,慶応2年の大洪水による取水口の決壊など近世の記録にとどめられる。当用水は時間給水を含む独特の番水制を持ち,上流・下流の水争いの解決を図るため,「水元押上三か村(蒲須坂新田・長久保新田・箱森新田)は明六ツ時より七ツ時まで昼水を用い,松山新田より水下九か村は夕七ツ時より翌明六ツ時まで夜水相用い相守り番水に取極,然る上は,上郷四か村堰場へ下郷役人立会い,尚又上郷村役人は下郷へ見回りいささかも不平之無き様配水致す筈に相定め」(押上村市ノ堀古文書)ている。この取決めは幕末にはすでに慣行化され,明治以降,水利組合規約の本則に成文化されることになる。一方,新田開発に伴う下流村の水不足,約10年ごとの改修工事や災害復興のための人夫割,資金割,村支配の転換,新河岸開設に伴う水路整備による河床の変動,他用水との水争い,旧喜連川藩2村(伏久・文挟)の特権主張など用水をめぐる水組合の混乱は廃藩置県まで続いている。明治期に入っても,明治14年の用水締切訴訟にみるごとく用水をめぐる村々の争いは尾を引き,用水の円滑な運営は市の堀用水組合の設立(明治34年)を経た市の堀普通水利組合の設立(大正5年)まで続いた。大正年間には芳賀郡まで用水路が延長され,大正12年には固定樋門が完成し,それまで約10年ごとに実施してきた取水口の大普請はなくなった。昭和13年から同18年にかけては第1期から第3期の県営市の堀用水幹線工事が開始され,同20年に竣工,第2次大戦後の昭和26年には市の堀土地改良区の設立認可が,また同32年には,国営鬼怒川中部農業水利事業が起工され,当用水の近代化が実現した。昭和37年には塩谷町に佐貫頭首工が建設されて,鬼怒川からの取水口となり,その結果,県中央部の穀倉地帯の東端を南流する県内有数の大用水路となった。なお,市の堀幹線工事は昭和41年に完成している。当用水の開設に努力した山崎半蔵の功績を讃える三百年供養塔が熟田村飯室(現高根沢町)に,また,墓碑が量山寺(高根沢町亀梨)にある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7040708