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萩垣面
【はんがきめん】


旧国名:下野

(近世~近代)江戸期~現在の地名。江戸期は日光門前東町に所属。古くは皆成川村(稲荷川町)に属して萩垣町と称した。しかし,寛文2年の洪水により稲荷川町とともに大部分の家屋が流失したため,住民の多くは対岸の大谷(だいや)川右岸に移転し,新たに稲荷町を形成したが,左岸にとどまってもと萩垣町の畑地に新集落を作った者もおり,その地を萩垣面と称するようになった。また,江戸中・後期の郷帳類に外山村と見えるのは当地を指す。大谷川支流稲荷川左岸,外山南麓の台地上に位置する。萩垣の地名の由来は山萩の垣根によるものと思われ,萩垣面は洪水後もと萩垣町の畑地面に住したことによる(日光山志)。日光神領。はじめ日光目代山口氏,寛政年間からは日光奉行の支配。はじめは皆成川村の一部で同村の村高に含まれたが,寛文の洪水ののち,稲荷川町が大谷川右岸の現在地に移転して残された畑地が外山村と把握され,元禄14年「日光領目録」では「外山分」と見え39石余(県史近世6),「天保郷帳」では「古者稲荷川町,外山村」として41石余。「旧高旧領」には見えないが,慶応年間「日光山森羅録」には「外山分,無戸,稲荷町年番持之」として34石余と見える(日光市史)。明和7年稲荷町家坪数書上帳には,稲荷町87軒(空家ともに)のほかに「萩垣面五軒」と見える(県史近世6)。しかし,日光仕法の始まる幕末期には畑地はすべて荒畑となっており,住民はいなかったと思われる(全集)。外山に関しては「日光山志」に「頂上に毘沙門堂ならびに籠屋あり,皆岩の狭間に造る,……正月三日を縁日とて諸人参詣あり,この地は将軍家御参詣の砌は御囲場にて遠望台なり」とある(日光市史)。また,「想山著聞奇集」に「日光山外山籠り堂不思議の事,并氷岩の事」が記載されている(日本庶民生活史料集成)。外山山麓の興雲山律院は享保14年の開基で,天台宗安楽律法流の名刹。明治7年日光町の一部となり,同年日光町,同22年からは日光町日光の通称地名。昭和29年日光市の大字となる。同53年の世帯25・人口62(男41・女21)。なお当地に,明治初年少年期の小杉放庵に感化を与えた画家五百城文哉の寓居と墓がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7043335