辺田方村
【へたがたむら】

旧国名:上総
(近世)江戸期~明治初年の村名。上総国山辺郡のうち。両総台地東端,九十九里浜平野中央西端に位置する。天正19年の徳川家康朱印状に辺田方郷とあり(西福寺文書・本漸寺文書),以後辺田方村と称したが,一方では東金町とも称した。「東金御鷹場旧記」では東金町と見え,東金組に属し,幕府領,「上総国村高帳」では東金町と見え,福島藩領,「旧高旧領」でも変わらず。なお「旧高旧領」には本漸寺領・西福寺領各30石が記載されている。村高は,文禄3年「石高覚帳」では東金町と見え824石,「元禄郷帳」836石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに851石余。「上総国村高帳」では家数446。慶長18年に徳川家康が鷹狩の宿舎東金御殿を設置し,御鷹場・御捉飼場としての支配が続けられた。江戸中期以降商業が発達し,天明年間には東金茂右衛門が醸造業で財をなし,天保年間には大野伝兵衛が製茶業を興し東金茶の名を四方に広めたという。天保11年の夏,梁川星巌が八鶴湖畔と推定される河野士貞の静観楼を訪ねている。幕末の本漸寺住持乾竜日乗は学匠として著名であった。慶応2年の人口2,303(山武郡郷土誌)。神社は五十瀬神社ほか5社。寺院は日蓮宗本漸寺・西福寺・嶺根寺ほか12か寺。明治初年東金町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7056968 |