馬引沢村
【うまひきざわむら】

旧国名:武蔵
(近世)江戸期~明治初期の村名。荏原(えばら)郡世田ケ谷領のうち。「こまひきざわ」ともいい,馬牽沢・駒牽沢とも書く。由来は,文治5年源頼朝が奥州征伐の途上,乗っていた葦毛の馬が沢に落ちて死んだことによるとも,頼朝への貢馬を荏原郡より牽いていったところこの地で倒れたことによるとも,鎌倉期に北条左近太郎が乗っていた馬が倒れたことによるともいう(新編武蔵・江戸名所・世田谷紀行)。地名の初見は天正19年2月の「武蔵国荏原郡馬引沢村御縄打水帳」。寛永2年には徳川秀忠が当村の194石を大久保甚右衛門に宛行っている(記録御用所)。その後,郷帳等の資料には馬引沢1村であるが,里俗には元禄年間以前より上・中・下と区分していたという(新編武蔵・新堀家文書)。「田園簿」の村高は田191石余・畑161石余,計352石余。支配の内訳は幕府領25石余・大久保甚右衛門知行176石余・同六右衛門知行115石余・内藤権之助知行35石。慶安4年,幕府の多摩川筋掘り替えによって一部河川敷となった井伊家領の代替として当村内の幕府領が井伊家領となる(大場家文書)。「天保郷帳」では村高656石余。「新編武蔵」による化政期の村の状況は,家数163軒。品川用水が流れていたが不便で谷川の水を利用,土質も悪く旱損を受けやすかった。村内を大蔵・二子(ふたこ)の2道が走り,小名に三軒茶屋・子の神丸などがある。明治になって,上・中・下馬引沢村の区分が公的に用いられた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7058883 |