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清浄光寺
【しょうじょうこうじ】


藤沢市西富1丁目にある寺。時宗の総本山。藤沢山無量光院と号する。藤沢道場といわれ,俗称遊行寺。本尊は阿弥陀如来。正中2年,遊行4代上人呑海が,実兄という相模国俣野荘地頭俣野五郎景平の援助をうけ,廃寺であった極楽寺を再興して清浄光院と名付けて止住した。これが当寺のおこりである(建長寺年代記・藤沢山遊行由緒書など)。それまでの時宗の本拠であった相模国当麻の当麻山無量光寺(相模原市)から藤沢へ移ったことには,呑海と当麻山4代の内阿弥陀仏真光との対立があったと伝える(京都長楽寺現蔵七条文書,呑海上人御法語・麻山集/定本時宗宗典)。また一説に,開基を藤沢四郎太郎とするが,確証はない。呑海は嘉暦2年2月18日に63歳で没す(常楽記/群書29,新潟県十日町来迎寺所蔵時宗血脈相続之次第など)。これ以降,遊行上人を退くと当寺に止住して藤沢上人と称され,遊行・藤沢両上人が並存して,いわゆる時宗遊行派を統括した。元弘3年5月の鎌倉幕府滅亡時の住持は遊行5代・藤沢山2代の安国で,長野県佐久市の金台寺には安国のものとされる書状(国宝)が伝来し,当寺の僧たちが戦死者の弔いや処刑者の引導のために働く姿が記されている。寺伝によれば,この戦いで北条高時とともに鎌倉東勝寺で切腹した南部茂時の遺骸は家臣によって当寺に運び込まれ,安国より引導をうけたという。現在,本堂の裏山には茂時と家臣の墓と伝える石碑がある。遊行6代・藤沢山3代上人一鎮の時,足利尊氏より6万貫の寺領と本堂を寄進され寺基が確立したと伝える。次の藤沢上人渡船(遊行8代)の時代には,末尾に「時也延文元年七月五日,沙弥重阿,住持他阿弥陀仏〈遊行八代〉,冶工大和権守光連,願主沙弥給阿等」との銘文が陽刻された梵鐘が鋳造され,現在鐘楼に掛けられている(日本古鐘銘集成)。康安2年,鎌倉府に反旗を翻した畠山国清入道道誓・義煕・義深兄弟は当寺を頼った(太平記巻38畠山兄弟修禅寺城楯籠事付遊佐入道事)。一方,鎌倉公方足利持氏は当寺と特に関係が深く,「遊行縁起」(県立博物館所蔵)には藤沢山7代尊明に対して「鎌倉殿御信仰ありて御弟子に成,日十念御申あり」と記されている。持氏と藤沢上人(あるいは太空か)との親しい関係を示す年未詳3月10日付藤沢上人宛足利持氏書状が当寺宝物館に所蔵されている(相文/県史資3上‐5966)。応永23年4月3日足利義持より時衆の人夫馬輿以下に関所通過の自由が与えられ,それは永享8年12月5日にも足利義教によっても認められた(県史資3上‐5488・5924)。応永23年10月に起こった上杉禅秀の乱において上杉氏定は当寺で自刃し,岩松満純の遺骸が当寺に葬られている。この合戦の戦没者供養のために建立されたのが,東門の左側にある怨親(おんじん)平等碑(国史跡)で敵御方供養塔ともいわれる。「南無阿弥陀仏」の六字名号の下に「自応永廿三年十月六日兵乱,至同廿四年,於在々所々敵御方為箭刀水火落命,人畜亡魂皆悉往生浄土故也,過此塔波(ママ)之前僧俗可有十念者也,〈応永廿五年十月六日〉」との銘文が刻されている。永享10年8月に永享の乱が起こり,翌年2月10日,当寺に外護を加えていた持氏は鎌倉永安寺で自刃した。遊行21代上人知蓮が述作した「真宗要法記」(定本時宗宗典)の第3「初夜以後ノ十念,二十遍ノ事」の中に,「後ノ十念ハ鎌倉将軍長春院殿御望ミニヨツテ十四代上人以来之ヲ行ゼラル」と記されている。「長春院殿」は持氏の法号で,持氏が尊明に約した「日十念」が代々続けられていた。永正10年正月29日,北条氏と三浦氏の兵火にかかり全山焼亡する(遊行歴代譜・新編相模)。そのため本尊を駿河国長善寺(静岡市本通)に移した。遊行22代上人意楽は美濃国二岩(現在地不明)に新寺を建立し本山にしようとした(御内書案/続群23下,寺蔵藤沢山過去帳など)が果たせず,近江国上坂(長浜市上坂)の乗台寺に止住し,ここで没した。ついで遊行24代上人不外は,越中国放生津(富山県新湊市)の報土寺を新たな藤沢山にしようと試みたが,これも果たせず,甲斐国の武田信虎を頼り甲府一蓮寺に止住し,長善寺に安置していた本尊を迎え入れた(遊行二十四祖御修行記/定本時宗宗典)。この本尊は阿弥陀三尊であったらしい。元亀2年,甲斐の武田信玄は相模出兵に際して,当寺に藤沢で200貫,俣野で100貫を寄付している(清浄光寺文書/県史資3下‐8052)。小田原北条氏の「役帳」では13貫726文が寄せられている。しかし,小田原北条氏時代には当寺の再建は成就しなかったと考えられる。天正19年11月,関東入府後の徳川家康は藤沢内で朱印寺領100石を寄進している(清浄光寺文書・記略)。これをうけて再建が進められ,慶長12年,遊行32代上人普光が入山して藤沢山13代となり,約100年ぶりに再興された(藤沢山過去帳・一蓮寺過去帳など)。普光は徳川家康の知遇を得て(徳川実紀慶長8年4月28日条など),当寺の再興ばかりでなく,時宗教団全体の復興と確立に努力し,中興の祖とされている。慶長18年3月11日,遊行34代上人灯外は幕府より伝馬50疋の手形をうけ,以後はこの威光のもとに遊行廻国を行った。それは嘉永元年5月11日付遊行57代上人一念までの歴代上人に与えられている(清浄光寺文書)。万治4年4月21日・天保2年12月27日に罹災するが(遊行系図など),その都度,門前町・宿場町藤沢の中心として復興された。明治5年の一宗一管長制の施行により時宗総本山となる。明治13年11月27日の大火でほぼ全焼し,関東大震災で倒壊したが,徐々に一山の威容を整えて現在に至る。境内には小栗判官照手姫ゆかりの長生院(俗に小栗堂と称す),鎮守の熊野社などがある。境内の東側には諏訪神社があり,明治の神仏分離以前までは当寺の鎮守。山門跡左手の宝物館には多数の寺宝が収蔵されている。時宗に関する聖教類では,伝他阿真教筆「六時居讃」(国重文)をはじめとする多くの礼讃や古和讃,他阿真教筆「安食問答」(国重文),「時衆過去帳」(国重文)や「藤沢山過去帳」など数多い。経典類では,天平宝字3年の「増壱阿経」巻36(善光朱印経)や奈良後期の「称讃浄土仏摂受経」以下平安期書写の経典も少なくない。絵画類では,旧国宝「遊行上人縁起絵巻」10巻は明治44年に焼失したが室町期の模写本(県重文)が現存。他に後醍醐天皇像1幅(国重文),もとの時宗一向派の派祖一向上人と伝える像1幅(国重文),二河白道図(県重文)など総数78点にのぼる。享保年間以降の「藤沢山日鑑」,正徳年間以降の遊行上人の遊行記録「遊行日鑑」が所蔵され,江戸期の動向を探る上で貴重な史料。開山忌法要は4月23日をはさむ3日間と9月21日から24日まで。薄念仏会は9月14日に行われる。これは旧暦7月14日未明に行われた盆の精霊回向の式で,「遊行日鑑」などには「庭のをどり」と見える。歳末別時念仏では11月27日の晩に「一ツ火」の式が行われ,参詣者が本堂を埋め尽くし,念仏札を配る遊行上人に群集するほどの盛況である。




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「角川日本地名大辞典」
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