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藤意
【ふじごころ】


旧国名:相模

(中世)鎌倉期~室町期に見える地名。相模国高座(たかくら)郡渋谷(吉田)荘のうち。藤心とも書く。寛元3年5月11日の渋谷定心置文に「ふちこゝろ」とあり,鎌倉幕府から人夫の要請があった場合には,渋谷氏の所領である当地をはじめ深谷・打鈍(うちもどり)などから屋敷・田畑に応じた人夫役を,また「大庭御まきをひかん」とする時は当地や深谷の在家が銭100文を負担するよう定めている(入来院文書/県史資1‐368)。また建長2年10月20日の渋谷定心置文にも同様の旨が記されている(同前411)。文永2年8月3日の渋谷明重譲状では「同(吉田上庄)藤意内立野伍町〈堺見絵図〉」などが子息有重に譲られ(同前520),同4年6月16日の関東下知状で安堵されている(同前540)。さらに弘安3年5月8日,同地が有重から甥重基に譲られた(同前906)。ところが,正応4年8月28日の関東下知状案によれば,有重の弟致重の二人の姉妹(辰童女と弥陀童女)の間で父致重の遺領をめぐって相論が起こり,和与していることが知られるが,その遺領の中に「吉田庄内藤意立野」とある(岡本家文書/県史資2‐1092)。なお弥陀童女(顕心)はのち重基の妻になっている。下って,南北朝期の康永2年2月8日の渋谷重基譲状では「一所,相模国吉田庄内藤意村藤次在家,同屋敷付田畑荒野〈自道西仁立野在之,副南〉」などが子息重勝に譲られている(入来院文書/県史資3上‐3693)。ところが重基は貞和3年11月26日付で重勝宛の譲状を2通作成している。1通には「同(渋谷庄)藤意内立野伍町〈但四至堺者,見本証文〉」とあり(同前3773),これは叔父有重から譲られた分と思われる。もう1通には「一所,相模国吉田庄内渋谷曽司郷,同藤心屋敷田畠立野等」と見え,亡父公重相伝の所領であった。惣領長徳丸(重基の兄)が死去した後に公重の置文に任せて重基が知行していたが,弟定重が押領してしまった。しかし康永3年に定重が死去したため知行を回復し,改めて譲状を作成したものと思われる(入来院文書/県史資3上‐3774)。一方,貞和4年6月14日の渋谷重職所領譲状案では,「藤心内河内三郎重通跡重職知行分半分」が子息王寿丸に譲られており,当地には渋谷氏一族のさまざまな所領が存在していたものと推定される(泰長院文書/同前3998)。貞和5年閏6月23日,渋谷重勝は子息虎松丸(重門)に「渋谷曽司郷内ふちこゝろの屋敷立野」などを,また子息虎一丸(重継)には母方からの相伝地「渋谷曽司郷内藤意田在家立野参町,屋敷,付荒野」などを譲っている(入来院文書/県史資3上‐4022・4023)。重継に譲られた分は,貞治7年8月6日付で渋谷重成から子息松丞丸に譲られて以降不明となるが(同前4627),重門の分は建徳2年10月15日付で子息虎五郎丸(重頼)に(入来院文書/県史資3上‐4673),応永13年11月15日付で重頼の子菊五郎丸(重長)に(入来院文書/県史資3上‐5391),さらに応永30年8月16日付で重長の子息初五郎丸(重茂)へと相伝されている(入来院文書/県史資3上‐5681)。ところが重茂が早世したためか,嘉吉元年2月27日には,重長から改めて孫の菊五郎丸(重典)に譲られ(入来院文書/県史資3下‐6020),次いで永伝元年8月21日には重典の子息重聡に譲られた(同前6398)。史料に曽司郷内とするものもあり,現在の綾瀬市早川の祖師谷地区のうちに比定されるが,詳細は不明。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7068808