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六浦藩
【むつうらはん】


旧国名:武蔵

(近世)江戸期の藩名。譜代小藩。陣屋は武蔵国久良岐(くらき)郡社家分村六浦(横浜市金沢区)。同地一帯は,旧六浦荘,通称金沢といわれるところで,陣屋も金沢役所と呼ばれてきたが,明治維新の藩制整備に際し,加賀国金沢藩(現石川県)との同一藩名による混乱をさけるため六浦藩を正式藩名とした。米倉氏の初代永時は相模国大住(おおすみ)郡・足柄上郡内5か村に知行を与えられ,中原代官の1人として大住郡内幕府領を支配。大住郡堀山下村に米倉氏菩提寺がある。3代目当主昌忠(昌尹)は元禄5年5代将軍綱吉の側用人,同9年若年寄に就任,1万石となり大名に列した。元禄9年の領知目録によれば,武蔵国幡羅(はたら)・埼玉・足立・比企(ひき)4郡4,477石余,相模国大住郡209石,上野国碓氷・群馬2郡5,313石余からなる(米倉家文書/県史資5)。同12年下野などにて5,000石加増,同年3,000石を分知して1万2,000石。宝永元・2年に少し所領移動があり藩領は固定。天保9年郷村高辻帳によれば,藩領は下野国都賀郡6か村4,552石余・安蘇郡6か村5,532石余,相模国大住郡9か村3,228石余・淘綾(ゆるき)郡1か村498石余,武蔵国埼玉郡2か村1,064石余・久良岐郡6か村1,568石余からなり,ほかに物成詰込高4,445石余・新田改出高69石余(同前)。はじめ陣屋は下野国都賀郡皆川村に置いたが,参勤交代はせず定府大名。享保7年武蔵国久良岐郡社家分村へ陣屋を移し,参勤交代を行うようになる。相模領は丹沢山麓の5か村(現秦野(はだの)市)を山方5か村,平坦部の水田地帯の5か村(現平塚市・厚木市・二宮町)を中郡と称した。武蔵領久良岐郡6か村は海付の村々で,特に赤井村・宿村は塩場家職第一といわれた。陣屋移転の同年8月,藩は相武領に67か条からなる条目を公布,この条目は以後の所領支配の基本政策となった。六浦藩も小藩なりに財政難が目立つ。天保11年には相武領16か村だけで1,660両余の先納金が累積,しかし翌12年にも400両の先納金を賦課した。また弘化4年には藩主子息の婚礼に際し相武領へ献金を命じたが村々はこれを拒否した。藩へ出入りする商人たちへの支払いも滞り,紙商人太田屋武兵衛に149両余,呉服商三河屋孫七に300両,日雇口入の加賀屋善四郎に107両,材木商大黒屋新兵衛に530両余など,その他合計2,495両余が未払いとなっている。こうした財政難建直しのため,万延元年昌言が藩主に就任すると倹約令を実施,正月2日御蔵開きの神酒1升を9合に,同11日の具足開神酒1升3合を3合に,家中組々毎月酒代200文の全廃等をきめた。元治元年第1次長州征討に参陣が決まり,大砲2門の買上代金200両をはじめ,総費用は4,979両余,参陣する人数は藩主昌言から人足をも含めて400人を必要とした。この総費のうち2,000両が相武領へ課された。第1次進発は中止されたが,慶応元年第2次長州征討には従軍した。政情不安の続く慶応2年,遠祖永時以来本貫の地である大住郡堀山下村に農民たちが徒党を結ぶ一件が発生した。小作年貢や伝馬夫銭をめぐり,小前百姓が江戸藩邸へ門訴のため東海道平塚宿へ押し出したが,最寄りの村役人の説諭によってひとまず帰村した。これに対して藩は指導者を逮捕したため,小前百姓は村の辻堂に参会,村役人の家へ押し込み,夜は投石をするなどの行動に出たが,藩はこれに対処できずに終わった。慶応4年官軍の東征に当たり,米倉氏はその先導となった。明治初年藩の規模は草高1万1,999石余,5か年平均正租現米2,365石余・永1,575貫余,戸数2,362戸・人口1万2,848人(藩制一覧)。明治4年廃藩置県により解体,六浦県となる。




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「角川日本地名大辞典」
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