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礪波山
【となみやま】


小矢部(おやべ)市と石川県津幡(つばた)町とにまたがる倶利伽羅(くりから)山の古称。標高277m。また,広義には倶利伽羅山・矢立山・源氏ケ峰・国見山などを含む付近一帯の山地をいう。古来越中・越前の国越えの交通路が主として礪波山越えの道をとっていたことは,天平19年5月越中守大伴家持が正税帳使として上京する時,越中掾大伴池主が別離を惜しんで「……礪波山手向けの神に幣奉り」(万葉集17)と詠じ,さらに天平感宝元年5月に東大寺占墾地使僧平栄が帰京する時に,家持は「焼太刀(やきだち)を礪波の関に明日よりは守部遣り副へ君を留めむ」(万葉集18)と詠じており,天平19年頃越前掾に転じた池主が礪波山麓の加賀国深見村に来た際,「深見村に到り来,彼の北方を望拝す。……隣近なるを以て恋緒を増しつ」という内容の書状を家持に送っていることなどから推察できる。池主が詠じた礪波山手向神(たむけのかみ)とは「三代実録」に「越中国正六位上手向神に従五位下を授く」(元慶二年五月八日条)とある手向けの神と思われ,現在礪波山の最高所倶利伽羅峠の頂に祀られている手向神社がこれであろうといわれている。礪波山は「万葉集」以後「夫木抄」「堀河百首」「善光寺紀行」以下多数出てくるが,歌以外では「承久記」に見える。「承久記」によると承久の乱に際して,承久3年北陸道大将軍北条朝時が兵19万騎を率いて京に上ったとあり,北陸道の説明に礪浪山として出てくる。大化前代より越の国は大和朝廷の勢力範囲と範囲外との境界になっており,以後律令政府は辺要の固めとして礪波山に関を設けている。家持の頃には軍事的機能はうすれていくが,越中の国境は,武士の台頭とともに貴族勢力と東国武士勢力との境界として重要な意味を持つようである。京都を地盤とした平氏と源氏木曽義仲との戦いも倶利伽羅谷で行われており,承久の乱によっていわゆる公武二元的支配が武士支配に変わってしまうことを考えると北条氏の軍勢の兵士徴発の西限が礪波山であり,当時の鎌倉幕府の支配の西限は越中までの範囲と考えられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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