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西呉羽村
【にしくれはむら】


(近代)明治22年~昭和15年の婦負(ねい)郡の村名。同郡の北部,呉羽丘陵の西緩斜面およびそれに続く射水(いみず)沖積低地の一部からなる。追分茶屋・中茶屋・峠茶屋・吉作(よしつくり)・花木・北三ツ屋・小竹(おだけ)・高木・住吉の9か村と金屋(かなや)・本郷・野口・古沢4か村の飛地からなる。大字は旧村名を継承し,9大字を編成。村役場を追分茶屋村に設置。地名の由来は呉羽丘陵の西方に位置することによる(婦負郡誌)。新村成立当時の戸数510・人口2,651,田327町・畑185町・宅地26町・山林68町(町村合併誌)。河川はなく牛ケ首用水が小竹・高木両村を貫流し,数条に分かれ付近一帯の水田をうるおしている。ほかに30余の溜池が点在するが,南部傾斜地は多く畑地である。明治30年頃まではサツマイモ・野菜等の雑作畑だったが,その後桑畑となり,大正期には果樹や茶が有力となった。大正4年の農業戸数462・農業人口1,382。桑畑は大正4年に833反あり,婦負郡では山田村に次ぐ。養蚕戸数は春蚕182・夏蚕156である。一方茶屋付近を中心として茶畑が広がり,大正4年の栽培面積は994反,茶は444戸で9,900貫を産す(婦負郡統計書)。呉羽茶は明治35年頃が全盛で,日露戦争時に一時とだえるがその後復興,大正5年から動力式製茶機を購入,同12年には6か所の製茶所があった(西呉羽村小史)。また吉作・住吉の山手では,明治末よりモモ・梨の栽培が始まった。とくに梨は大正期の末にこの土地に適した長十郎梨の栽培に成功,大正12年には10haを栽培し,昭和8年からは富山市以外に大阪市場へも出荷するようになった。その後も栽培に力が入れられ,同13年には35haまで拡大した。他方同丘陵の砂質粘土層は各所に瓦工業を生んだ。追分茶屋・吉作を中心に,盛進社(明治12年創業),吉作・浜田・藤坂各瓦工場(同22年創業),甲野工場(同32年創業),清水工場(同38年創業),中島工場(同40年創業)等があるが(富山県統計書),大正4年には戸数6戸で44万4,000枚を産した(婦負郡統計書)。昭和5年には吉作に藤坂・甲野・藤坂分各工場,追分茶屋に中島・荒木等の工場があり,米に次ぐ第2の物産にまで成長した(西呉羽村小史)。すでに明治32年北陸鉄道(現北陸本線)は富山まで開通していたが,同41年呉羽山トンネルの開通と前後して小竹に呉羽停車場ができ,昭和3年同駅より吉作に通じる道路が開通,同年12月に資本金1,000万円の呉羽紡績呉羽工場がこの道路沿いに進出,同5年より綿糸・綿布の製造販売を開始した。さらに同8年の新国道(旧国道8号)の開通は,鉄道と相まって当地方の発展を促進する力として大きなものがあった。すでに小竹には村役場や小学校があったが,呉羽駅や工場を中心に人家が並び,郵便局(大正7年)・銀行もでき,呉羽駅からは当地の物産が出荷され,下村(しもむら)方面行の乗合自動車が汽車の発着ごとに往復する等,繁華の中心となった(呉羽・寒江・長岡村勢概観,西呉羽村小史)。明治35年の戸数504・人口3,071,大正11年頃より漸増の傾向があり(富山県統計書),昭和2年戸数582・人口3,528(西呉羽村小史)となっている。明治23年に追分茶屋と高木の両小学校を廃し,同年10月呉羽尋常小学校に統合,同25年新校舎の完成をみる。昭和15年婦負郡古沢村と合併して,婦負郡呉羽村となる。各大字は旧大字を継承し8大字を編成。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7083411