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五箇
【ごか】


武生(たけふ)盆地の東部にある越前和紙の産地。今立郡今立町南部の不老(おいず)・大滝・岩本・新在家・定友の5集落からなり,名の由来となる。紙漉の起源については紙漉を教えた川上御前の伝承があり,今も岡太神社に祀られている。宝亀5年の正倉院文書には越前が紙や紙の原料を納める国としてみえる。「延喜式」主計上にも和紙を産する国に越前の名を記す。五箇は国府や味真野(あじまの)にも近く,古代から紙の需要が多かったと思われる。また大滝には泰澄が養老3年に創建したという大滝児大権現,後の大滝神社があり,中世には大滝神郷で紙座を結成し,生産販売の独占権を得ていた。この頃には専門的紙漉業者も出来たと思われる。「三田村家文書」によると,斯波高経の頃,御教紙製造を命じられ,奉書屋を仰せ付かったという。長禄4年には府中惣社が「大滝さつし」を引出物として贈り,御湯殿上日記の文明9年の項には越前の鳥の子・薄様・打雲などの紙名が見られる。紙座を保護した朝倉氏や大滝寺が滅びた後も三田村家は織田信長や豊臣秀吉,松平秀康らによって奉書紙売買の特権を認められ,その下で五箇の紙漉が行われた。五箇からは幕府をはじめ福井藩・紀州藩等に奉書・鳥の子・大高檀紙を納め,京都の青蓮院・知恩院にも御用紙を納めた。寛文元年以来福井藩々札をすき,後には丸岡・大野藩の藩札もすいた。元禄頃には商品経済が発達し,五箇の紙漉も繁栄した。藩は紙会所を設け,判元制をしいて統制を強めた。幕末になると藩は物産総会所を設け,五箇の紙もその中に組み込まれた。安永4年頃の漉屋の総数は248軒,大滝84・不老40・岩本48・新在家26・定友48となっている。維新政府からは太政官札の抄造を命じられている。明治初年には局紙や黒透かしの技法が開発され,エッチング用紙や版画用紙を西欧へ輸出した。大正期には美術紙に江戸期の打雲・飛雲・水玉・墨流しなどが復活し,さらに改良された。岩野平三郎は日本画用紙にも改良を加え,大滝紙や大徳紙は一流の画家が愛用した。昭和に入り機械漉も少しずつ増加し,大型の襖紙も増加した。昭和16年から25年にかけて,大蔵省印刷局の五箇抄紙部出張所が設けられ,紙幣用紙をすいた。二代目岩野平三郎は昭和32年に打雲・飛雲・水玉の技術を認められ,県無形文化財保持者となる。岩野市兵衛は越前奉書の伝統を守った木版画用紙を作り,昭和43年に人間国宝となる。地元では原料・水とも不足がちであるが,高い伝統的技術と信用に支えられて,日本でも特異な和紙産地を維持してきた。昭和30年代には手漉から機械漉に転換する業者も増加し,大量の水を使用するため,武生市の味真野扇状地の湧水地帯に工場の進出もみられる。また「和紙の里会館」や「パピルス館」もあり,和紙の歴史等の学習や,紙漉実習もできる。昭和63年現在,不老10・大滝40・岩本8・新在家3・定友2,計63軒の製紙工場がある。




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「角川日本地名大辞典」
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