熊野神社
【くまのじんじゃ】

東八代(ひがしやつしろ)郡八代町北にある神社。旧郷社。祭神は速玉男命・伊弉冉命・事解男命。熊野権現と称した(国志)。社伝によれば,朱鳥年間に紀伊国熊野から伊弉諾・伊弉冉2神を勧請したのが創祀という。当地は「和名抄」の八代郡八代郷にあたり,「八代」や当社の所在する字名「竹之内」は建内宿禰の子波多八代宿禰に由来するという(国志・八代町誌)。院政期には当社周辺に八代荘と称する荘園が成立していた。八代荘は久安年間に甲斐守藤原顕時が神験によって紀伊国熊野本宮の11月法華八講の料所として寄進したもので,熊野本宮の社領であった。しかし応保2年に甲斐守藤原忠重は目代に命じて八代荘を停廃し,軍兵を引率して神人に狼藉を加えるという事件が起きている(長寛勘文/群書26)。当社がこの事件にどのようにかかわったかは未詳だが,この時期の国衙と権門寺社,皇室との関係を示す事件として特筆される。本県の熊野社分布は山梨・八代郡に集中していて国衙領に勧請されたものと考えられるが(八代町誌),当社もその1つかもしれない。永禄4年の武田晴信禁制に見える20番の「八代の禰宜」は当社のことと考えられる(八幡神社文書/甲州古文書1)。天正11年4月徳川家康は八代のうちに33貫750文,小石和(こいさわ)の内に100文等の朱印社領を寄進(熊野神社文書/甲州古文書2),慶長8年の四奉行黒印で北八代村の内に37石4斗余の社領と340坪の社地を有した。同14年2月には徳川家奉行から「不時鐘つき候事」など5か条の禁制が下され(社蔵文書/八代町誌),南・北八代村の鎮守として崇敬された(国志)。寛永19年7月徳川家光から朱印社領として37石4斗余が安堵され,社中諸役なども免除され近世を通じ継続した(寛文朱印留)。別当は新義真言宗の熊野山千手院で,福光園寺(東八代郡御坂(みさか)町)の末(国志・本末帳集成)。千手院は,天正4年11月19日付武田勝頼判物に「一乗院」とあるように(熊野神社文書/甲州古文書2),当初一乗院と称していたが,当社の本地仏が千手観音であるために千手院と改めたという(国志)。かつては75度の祭りがあり(山梨鑑),3月3日の祭礼は舟祭と称して有名であった。これは寿永年間に始まったとも伝え,馬場の左右に地頭舟,百姓舟と称する舟を配して,氏子が神前に引き入れるのを競う神事で,これにより年の豊凶を占ったという(甲斐名勝志・国志)。明治6年郷社に列格。同18年類焼したが,同25年に再建。例祭は4月5日,10月15日。社宝として,当社北方の波多八代宿禰の墓といわれる団栗塚古墳出土の銅鏡(県文化財),長寛勘文写本,絹本著色熊野曼荼羅(以上,町文化財)などがある。境内の高野マキ,イチョウも町天然記念物。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7096805 |





