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舂米
【つきよね】


旧国名:甲斐

慶長8年「徳川家奉行連署寄進状」や「元禄郷帳」では槻米とも書いた。甲府盆地南西部,釜無川下流右岸部に位置する。段丘崖下の利根川扇状地扇頂部にあたる。地名について,地元では古代の「舂米部」に由来するといい,あるいは中世の雨鳴城(秋山)や北山城(舂米)の城米をついたことに由来するともいうが,全国各地の「ツキヨネ」の多くが山麓や崖の上などの微高地に位置するところから,やはり地形上に由来する地名と思われる。縄文・弥生時代の舂米北山遺跡・舂米中尾田遺跡,古墳時代の藤塚古墳・狐塚古墳・法華塚古墳・塚穴古墳・二十三夜塚古墳がある。また平安期の駅鈴も伝存する。中央部に宝亀元年創建という明王寺があり,平安期の薬師如来立像,貞応3年銘鰐口(いずれも国重文)・文明9年銘不動明王版木(県文化財)を所蔵。南部の南明寺は甲斐曹洞宗発祥の名刹で明峰派の本山。西部に武田氏惣領一条忠頼寓居跡(宝林寺)と,離れて明楽寺跡に忠頼墓を伝える。一条忠頼は武田の祖太郎信義の嫡男で,一条小山(甲府市)に拠ってその名を称し,当時大井荘南条のこの地を併領して屋敷を持った。忠頼は治承・寿永の争乱に甲斐源氏を率いて活躍し,ことに寿永3年木曽義仲を近江国粟津に敗死せしめた(吾妻鏡)。ところが武蔵守受領のことから源頼朝の忌諱にふれ,元暦元年鎌倉において謀殺されて,ひそかに持ち帰られた首を埋めたとされる地には五輪塔があり今は史跡の碑がたっている。後年,頼朝は忠頼・範頼・広常ら3人への殺生を後悔して,毎日法華経読誦を手向けたという(大石寺本曽我物語)。
舂米(中世)】 戦国期に見える地名。
舂米村(近世)】 江戸期~明治7年の村名。
舂米(近代)】 明治後期・大正期~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7097636