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下黒田村
【しもくろだむら】


旧国名:信濃

(近世)江戸期~明治8年の村名。伊那郡のうち。上郷を南北に走向する大段丘崖の上段に位置する。中世には黒田の地名が見える。天正10年7月26日徳川家康が知久頼氏に伊那郡内の本領69か村,6,000貫を安堵しているが,その中に「下黒田村」が見える(知久文書/信史15)。飯田藩領。「天正高帳」によれば,村の品などは上の村で,村高は788石余。「正保知行付」783石余,「元禄郷帳」も同高,「天保郷帳」897石余,「旧高旧領」988石余,検地帳は寛文11年実施のものが残り,水田38町5反余・畑29町4反余で,50人の独立百姓がいる。一人で9町余を所有する大百姓がいる反面,8畝しか所有地を持たない自作農も見える。なお当村には他町村からの入作者はいない(上郷史)。寛文11年から明治2年まで200年間の新田畑の増加は,高松原や大明神原を中心とした開墾により,反別は水田4反余・畑7町2反余・畑田成3町9反余で,周辺の村々に比較して多い。戸数・人口は,享保年間70戸,天保14年95戸・451人,元治元年112戸・784人(同前)。野底川が下黒田村の水源で,その用水堰をめぐって他村および村内での分水論争が激しく展開された。神社は慶長6年朝日受永寄進状をもつ下黒田諏訪神社があり,春秋の祭礼に神楽代わりとして人形芝居を奉納してきた。これが黒田人形で,寛政年間に吉田重三郎により伝えられた。天保11年には4間に8間,総2階建ての人形専用舞台が再建され,昭和49年国重要民俗文化財に指定された。寺は,この地の豪族斉藤氏の持仏堂である曹洞宗法隆山太念寺と,伊那十二薬師第9番の高松薬師堂がある。明治4年飯田県を経て筑摩県に所属。同8年の戸数175・人口867(同前)。同年上郷(かみさと)村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7101193