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知久
【ちく】


旧国名:信濃

(中世)鎌倉期から見える地名。伊那郡伴野荘のうち。室町期からは郷名で見える。地名の由来は,鎌倉期伊那郡蕗原荘小河内郷上の平から知久氏が移住したことによるという。延慶元年8月12日の年紀を有する上諏訪五重塔棟札銘に「知久」と見える(喬木村誌)。下って永享9年暮春18日の年紀を有する千代村諏訪社蔵の銅製鰐口銘に「信州知久南山郷野池社鰐口」とあるが(信史8),これは当地の南方,山間の丘陵地域南山郷が知久氏の支配下にあったことによると考えられる。享徳4年6月16日の庚申和歌御会詠草の奥書に「信州伊那郡伴野庄知久之郷文永寺密乗院宗詢法印童形之時」とあり,知久頼嬌の子宗詢は童形の時後花園天皇の当座の和歌会に召されて和歌を詠じたという(文永寺文書/信史8)。知久氏は諏訪社とのかかわりが強く,「守矢満実書留」応仁2年条に「知久本郷宮付」とあり,諏訪社上社の神使御頭役を勤仕した(信叢7)。この知久本郷とは,知久氏の居城で鎌倉期に築かれた知久平城のある地を指す。同書には文明11年条に「知久御左口神付祝一貫」,文明19年条に「宮付知久本郷」,延徳2年条に「宮付知久□」などと見える(同前)。「伝法灌頂雑記」によれば,文明7年10月9日,山城醍醐寺理性院の宗典が,「信州伊那郡伴野庄知久郷文永寺密乗院」において伝法灌頂を行った(信史9)。「前住大徳雪岫和尚行状」には「知久県」,「雪岫和尚語録」には「信州伊奈郡知久郷居住」「信州伊奈郡伴野荘知久郷居住」などと見える(同前10)。また弘和本「雲州住来」の奥書に「永正二祀〈己丑〉菊月中旬之候,於信州伊那郡伴野荘知久郷文永寺密乗院,以右本書之,法印宗詢」とある(同前)。「神使御頭之日記」天文7年条に「大県介 知久」,同10年条に「内県宮付 〈柏原〉知久」,天文19年条の浦野三頭分の中に「一,知久本郷 一,〈知久〉柏原,一,〈知久〉虎岩〈是ハ知久殿被押候〉」,天文22年条に「宮付 知久〈北ハ明候〉」,「神使御頭足之書」所収の永禄7年閏12月13日の注文に「内県宮付 〈知久〉柏原郷」,同9年12月13日の注文に「大県宮付 知久本郷」,天正12年の注文に「介 知久本郷」(以上,信叢14),そのほか「御頭役請取帳」永禄9年条に「知久本郷」,同13年条に「〈知久〉柏原之郷」,元亀3年条に「知久本郷」が見え(信史13),近世初頭に至るまで,頭役を勤めた。天文23年7月,武田晴信は信濃に侵入,「厳助往年記」に「八月十五日,信州文永寺其外知久郷悉放火,自甲州乱入云々」とあり,「勝山記」によれば,晴信は当郷に侵入して知久頼元父子を捕らえて甲斐大原島へ流した(同前12)。そして,同年12月20日には下条頼安に「知久平之内」の所務を命じ(武家事紀/信史12),その後天正9年10月28日には下条信氏が平沢勘四郎に「智(知)久平代官」を命じた(平沢文書/同前15)。この知久平は,知久平城を中心とする知久本郷を指すものと考えられる。元亀2年3月17日,武田信玄は秋山信友に命じて,伊那郡飯沼郷などに大島城の普請を命じたが,その中に知久衆が見える(工藤文書/同前13)。天正10年7月26日,徳川家康が知久頼氏に伊那郡内の「知久本領」69か村,6,000貫を安堵しているが,その中に「知久平村」と見える(知久文書/同前15)。同年8月12日,徳川家康は下条頼安に,「松尾・知久領内」を除く伊那郡の地を与えた(下条文書写/同前15)。郷域は,天竜川左岸の段丘上とその上段の山間地,現在の飯田市知久平・虎岩・南原・柏原に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7101867