槻木新田村
【つきのきしんでんむら】

旧国名:信濃
(近世)江戸期~明治8年の村名。諏訪郡のうち。上川に合流する柳川中流域,大泉山東麓に位置する。集落は上槻木と下槻木に分かれる。永禄年間の開発というが,天正年間日根野織部正の高島城普請に際し,人足としてかり出された百姓らは,あまりの苛酷さに郡外に逃散したという。しかし,慶長年間諏訪氏の支配となって召返され,再開発されたという(槻木区有文書)。再開発の年度については,寛永17年または正保3年とも(諏訪郡諸村並旧蹟年代記/諏叢11),慶安2年小平久兵衛(両角外太夫)の見立てによって開発,草分は彦右衛門・庄三郎ともいい,承応3年に初検地(茅野市史)。承応3年の検地目録(槻木区有文書)による村高は田高17石余・畑高147石余で合計165石余。「元禄郷帳」も同高,「天保郷帳」542石余,「旧高旧領」550石余。享保18年の「諏訪藩主手元絵図」による戸数81。人口は,寛政元年の宗門帳で男274・女275の計549。産土社は,上槻木が津島神社,下槻木が山神社。明治4年高島県を経て筑摩県に所属。同8年泉野村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7101946 |





