中村
【なかむら】

旧国名:信濃
(近世)江戸期~明治8年の村名。小県(ちいさがた)郡のうち。田沢川と湯川の流域に位置する。元和2年田沢村から分村して成立。初見は寛永13年の名寄帳(丸山文書/信史26)。上田藩領。浦野組に属す。村高は,寛永13年名寄帳167貫余,「承応貫高帳」(宮原家文書)168貫余,「旧高旧領」436石余。宝永3年の田沢郷差出帳(上田藩村明細帳)に家数57(百姓23・水呑34),人数295(男159・女136),馬22,紙漉25,農間余業に男は木草取,女は紙漉手伝,養蚕も少し行っていたとある。十観山の東南麓には古湯田沢温泉(那須里の湯)があり,静かな山の湯治場として親しまれ,近郷の人々や松本街道・麻績(おみ)道などの旅人で年中にぎわった。古くは東征の兵士達の兵站病院の役割を果たしたという旗鉾寺の伝説がある。入口の馬場には東山道が通過しており,麻績道が分岐している古い市場跡,中央に市神社があり,西北隅には代官屋敷があった。旅籠も含めて米・麦生産を主とする農村であった。特産物は薪炭・紙・串柿などで取引先は主として上田町・浦野宿方面であった。江戸中期から始まった養蚕業は江戸後期から明治初期に発達し,蚕種の販売先は他国に及んでいる。また馬持ちは上田町・浦野宿などへ荷物運搬の手馬稼に出た。長久保宿の加助郷,浦野宿・上田宿・海野宿へも出役している。田沢温泉があり,松本街道・麻績道が通ることから早くから文化の恩恵に浴し,刺激されて学問を志す人が多く,寺子屋ができ,家塾が開かれた。江戸中期に門人百余人をもった医師橋爪玄惟をはじめ,6人の医師がいた。俳諧を指導した宗匠有竹亭止雀若林孫治郎がいる。宝暦11年12月に起こった上田藩惣百姓一揆いわゆる宝暦騒動(上田騒動)には,村をあげて参加している。割番であった若林孫治郎は,この一揆の計画者で最高指導者であった。子供祭の道祖神祭天神祭は現在行われていない。鎮守は,延喜式内社子檀嶺神社里社(諏訪大明神宮),祭神木俣神,合殿に健御名方命を祀る。当村だけでなく田沢3郷の鎮守である。ほかに山の神2社,市神・稲荷社・三峰社・秋葉社・湯源権現社が各一社ある。寺は曹洞宗西禅寺・天台宗若宮坊があった。若宮坊は郡内山伏の触頭であった。明治4年上田県を経て長野県に所属。同6年西禅寺に尽性学校が設置され,入田沢村・中挟村・当村が通学区。同8年田沢村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7102367 |





