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野村上村
【のむらかみむら】


旧国名:信濃

(近世)江戸期~明治8年の村名。水内郡のうち。飯綱山東麓から流出する八蛇川の扇状地に位置する。「県町村誌」の川上村の項に「本村古時,水内郡太田郷に属す……上村・野村の二村たり。弘治・永禄年間甲越戦争の際,家屋焼亡,村民離散す,後稍々帰復し,二村合併村落をなし,野村上と称す」とある。もともと野村上は八蛇川の扇状地上にあり,上村はその上流,野村は下流の末端に立地した。野村については,嘉暦4年3月日の鎌倉幕府下知状案に「同(大田)庄内野村上・上今井」と見え,当地は諏訪社上社五月会御射山頭役等うち8番の左頭の勤仕が命ぜられている(守矢文書/信史5)。近世の野村上村境の東方に接した中宿村の水田地帯に圃場整備まで「養和中木曽義仲之を築く」と伝えられる寨城跡といわれる場所があった(県町村誌)。また,近くには木曽義仲が戦勝祈願したと伝えられる諏訪社跡(旧野村上神社)がある。この辺が野村の中心と推定される。野村は八蛇川の氾濫原上にあり,水害や戦乱のため廃村となり,戦国末期に至り上流地区が開発され,野村に代わって夏川の村落が成立したとみられる。はじめ飯山藩領,元和2年幕府領,天和2年坂木藩領,元禄15年からは幕府領(明和5~7年越後高田藩預り地,慶応2年松代藩預り地)。なお,元和2年は坂崎成政知行所(石見津和野藩領か)であったともいう(県町村誌)。村高は,「慶長打立帳」200石余,「正保郷帳」194石余,「元禄郷帳」414石余でほかに当村枝郷として夏川新田村169石余・北川新田村75石余・茶磨山(ちやうすやま)新田村29石余があり,「天保郷帳」450石余で同じく枝郷の夏川新田村206石余・北川新田村89石余,茶磨山新田村33石余が記され,「旧高旧領」450石余。寛永7年に夏川新田村・北川新田村を各々分村,明暦2年茶磨山新田村を分村。北国街道の脇街道としての坂中街道と戸隠道の両道が合う字中町は街村をなして,この地域の中心地であった。除地3石余の中町の諏訪社は,のち明治6年村社に列せられ野村上神社と改称。同社には往古木曽義仲が北陸に向う途中,戦勝祈願をした際に駒をつないだといわれる槻の大木があった。明治元年の戸数61・人数243。同2年伊那県,同3年中野県,同4年長野県に所属。曹洞宗観音庵は盛伝寺末(押鐘村)で,明治6年廃寺。跡地に日省学校野村上支校を設置。同7年茶磨山村を合併。同8年川上村の一部となる。




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「角川日本地名大辞典」
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