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福束輪中
【ふくづかわじゅう】


安八(あんぱち)郡輪之内町にある輪中。福束輪中の名として新旧2義が用いられてきた。後述の合併以後は大吉輪中を含めた区域を意味し,古くはこれを除いた区域を指す。新福束輪中は東に長良(ながら)川,西に揖斐(いび)川,北に中村川,南に大榑(おおぐれ)川をひかえ,それらからの洪水を防ぐ懸廻堤に囲まれた区域をいう。このうち,大榑川は元和5年に新規掘削したという「百輪中旧記」の説を「岐阜県治水史上巻」は引用しているが,大榑川の形態は地形的には人為的な河川とは認めにくい。掘削したとしてもたかだか自然にできた河川を部分的に拡幅などした程度と考えられる。旧福束輪中の高位部は古くから開発されているが,福束新田・中郷新田・藻池(もいけ)新田・下大榑新田・海松(みる)新田の諸新田は寛永元~2年に開発されており,この時点で懸廻堤もでき,旧福束輪中が成立したものとみられる。それまでは堤防はあっても上流部に限られ,尻無しであったと考えられる。寛永当時の懸廻堤を吟味すると揖斐川沿い,長良川沿い,大榑川沿いについてはその後と変わりはない(明治の改修前まで)が,大吉輪中との境は中堤と呼ばれる藻池新田・海松新田沿いの堤防が懸廻堤である(寛政11年の古地図にはこの中堤が福束村・同新田・藻池新田・海松新田に所属することがそれぞれ区分して明記してある)。この旧福束輪中の西南側の堤外にある大吉新田は寛文5年に,またその上流部の豊喰(とよばみ)新田がこれに2年遅れて開発された(それまでこの両新田は完全に揖斐川の河川敷地内にあったとみられる)。一方,三郷輪中(本郷・柿内・西海松の3村からなる)は両新田より早く開発され,輪中を形成し,海松新田との間には川があった。大吉・豊喰両新田の開発を契機に,旧福束輪中の海松新田と三郷輪中の間の川を締め切り,新福束輪中が成立した。したがって新福束輪中の成立は寛文7年頃とみてよい。宝永元年の濃州川々取払普請所絵図は完全に新福束輪中の姿を示している。このように,新福束輪中は寛文7年頃に複合輪中として成立しているが水防組織としては旧福束輪中と大吉輪中とに分かれ,それを統合する組織はなかったようである。明治3年地元の片野万右衛門らの努力で中堤を壊し,水防組織としても新しい福束輪中が成立した。このように新福束輪中はいくつかの輪中の合併したものであるから,集落は旧輪中堤に沿って分布し,新輪中の懸廻堤に沿ってのみ分布しているとは限らない。この点を考慮しても,旧福束輪中内ではその懸廻堤に沿っているとはいえない集落が多い。大藪の町並みや中郷村・福束新田・中郷新田などがそれである。これらはかつてこの輪中内を古い川が流れていて,その自然堤防上に集落が立地しているものと基本的には解される。なお,今日まで福束輪中はその北側の堤防をやや変形しつつも温存してきたので,昭和51年9月12日,上流の森部(もりべ)輪中で長良川堤防が決壊した時,この堤防を利用し,輪中水防団が土のうを積んで(新しい道路のため堤防を崩した部分に)洪水の浸入を防ぎ,この堤防を境に浸水地域と明暗を分けたことは有名となった。江戸期の福束輪中は明治以降,水防組織体としては福束輪中揖斐川大榑川長良川中村川堤防組合水利土功会・福束輪中水害予防組合と名称が変わっているが,明治31年現在,民有地反別は1万5,339反余であり,水防諸色庫13棟があり,福束村3人・御寿村3人・仁木村3人の計9人の総代を出していた。また,この組合の経費は反別割50%,地価割50%を負担していた。昭和3年この輪中以北の8輪中が統合して揖斐川以東水害予防組合に統合された(森部輪中参照)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7108386