掛川城
【かけがわじょう】

掛川市掛川にあった戦国期から江戸末期までの平山城。市街を東西に貫流する逆川北側の独立丘陵が城跡で,古城と新城に分かれている。北東部の標高54m,通称天王山が古城で,文明年間今川義忠が遠江(とおとうみ)経略の中心として重臣朝比奈泰に築かせたという。東西360m・南北320mの城域に,東西33m・南北30mの本丸,その東に深さ9m・幅4m・長さ40mの大空濠を隔てて二の丸・三の丸さらに袖曲輪を付属し,南麓に居館を構えていた。新城は古城の南西500m丘陵の先端部に永正10年頃泰
の子泰能が築城したといわれる。城域は東西250m・南北300m位で,本丸を囲むような形で二の丸と三の丸があった。外郭には空濠と土塁が巡っていたらしい。永禄11年12月武田信玄に駿府を追われた今川氏真が入城したが,徳川家康の大軍に包囲され,籠城6か月の後開城。氏真は城主泰朝(泰能の子)とともに掛塚港から船で伊豆戸倉城へ退去した。その後家康の家臣石川家成・康通父子が相次いで城主となったが,天正18年小田原合戦後,上総鳴渡へ転封され,替わって豊臣秀吉の家臣山内一豊が5万石をもって入部。一豊は城地を拡張して近世城郭を造りあげた。同時に城下町の整備にも努めたが,慶長5年関ケ原の戦後土佐浦戸へ転封となり,松平定勝が3万石をもって城主となった。以来幕末まで一時中泉代官の支配に属したこともあるが,譜代大名が城主として幕末に至った。明治4年廃城となったが,太鼓櫓・天守台などの遺構がある。全国でも珍しい二の丸御殿は,修復されて国重文になっている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7110593 |