清水港
【しみずこう】

特定重要港湾。昭和27年指定,管理は静岡県。羽衣伝説で有名な三保半島が天然の防波堤となって,港内の静穏度が良く,水深にも恵まれる。背後には国鉄東海道本線・新幹線・国道1号・東名高速道路などの幹線交通路が通過する。港湾勢力圏は東海地方はもとより甲信地方に及んでいる。現在,国際貿易におけるライナーポート(外航定期船寄港地)として重要門戸である。巴川河口右岸の清水湊は永禄3年3月12日の今川義元船役免許判物(寺尾文書/県史料2)に,「清水湊爾繋置新船壱艘之事」とあり,当湊の新船1艘は,清水・沼津・内浦・吉原・小河・石津・懸塚その他今川氏の分国中において商売をしても帆役・湊役・出入役・櫓手立使などが免除されている。次いで永禄3年9月15日の今川氏真船役免許判物(同前)でもこの特権が安堵されている。巴川を挾んで江尻の対岸が清水であるが,戦国期には江尻湊をも併せて清水湊と呼ばれるようになった。この清水湊には,永禄12年正月から武田家臣馬場信房・今福和泉守によって海賊城としての清水城の築城が開始されたが(武田三代記),同月から4月までの武田対小田原北条の薩埵山合戦の際に一時,北条水軍に占拠された。しかし,同年には武田方が奪還し,翌元亀元年には横田光胤が置かれて武田水軍の拠点となった(駿国雑志)。その後清水城は,武田・徳川・中村氏の持城となったが,慶長12年に徳川家康が駿府城へ入って後,堀を埋めて町屋を建設したため廃城となった。江戸期において幕府は回送地として定め,42軒の回船問屋に海上警察権を与え,海陸の交易を奨励した。諸国回船の出入りが頻繁となることによって,今日の発展の基盤がつくられた。明治32年に開港場の指定,海外貿易港として発足。大正3年には江尻船溜と巴川地区の整備,江尻地区の埋立てが第1期修築工事として完工している。同7年茶の全国輸出高の80%を独占,入港船舶の増加とともに港湾周辺に造船・製材・食油などの工場が進出,臨海工業形成の先駆をなした。昭和2年に完成した折戸貯木場は,天然の折戸湾を利用して,その規模と立地条件によりわが国四大木材港の1つとなっている。同13年には日の出岸壁と公共施設の築造が第2期修築工事として完工した。この歴史的に古い日の出岸壁の総延長は820m,現在も在来型荷役を必要とする貨物の積下ろしに盛んに使用されている。近代港湾としての施設が整備されると,工場数も増え新たに缶詰・合板などの工場が立地した。特に清水におけるマグロとミカンの缶詰生産は,全国生産高の約80%を占めている。日中戦争後は,日本軽金属・東亜燃料・日本鋼管・日立製作所などの大企業が設立,原料輸入製品輸出の加工貿易型をとり,従来の商港的性格に工業港の性格が加わって,第2次大戦前の最高取扱貨物量は143万tに達した。戦争により港湾機能は全く停止するという戦禍を受けたが,再建に努めた結果,昭和26年の取扱貨物量163万t,戦前の最高をしのいでいる。同27年に特定重要港湾の指定を受け,国際貿易港としての地位を確保,同35年の取扱貨物量は665万t,港湾施設は狭隘をきたした。近代的施設を完備する富士見埠頭の岸壁総延長は964m,同38年に竣工して綿花・穀物・ウッドチップの輸入荷揚岸壁となっている。同42年に第1,同49年に第2が竣工した興津埠頭は岸壁総延長2,269m,輸送形態の革命であるコンテナ施設が完備され,夜間荷役にも応えて清水港の貿易活動の核心部である。同46年に建設された浜松インランドデポは,わが国はじめての内陸港湾であり,急速に進展する国際海上コンテナ輸送に応えている。47万5,000m(^2)の埋立工事を完了した袖師第1埠頭は同52年に西岸,翌年は東岸の岸壁使用を開始,岸壁総延長2,202m,海上コンテナ輸送の進展と木材荷役の合理化に対処している。昭和53年の取扱貨物量は1,497万t,うち外国貿易における輸出量は158万t(自動車42.7%,オートバイ26.4%),輸入量は739万t(原木27.8%・原油22.7%・ウッドチップ20.4%),また内国貨物の移出入量は600万tで,同年の入港船舶数は1万263隻となっている。古くから漁港として利用されていた江尻埠頭も近代的施設を整備,昭和53年には,1,117隻の漁船が14万3,000t(974億円)の水揚げをした。マグロの一船買いが本格化することによって,冷凍施設に恵まれる清水港の水揚金額は激増,昭和48年に焼津漁港の水揚金額を抜いて以来,全国一の地位を保っている。観光客汽船は駿河(するが)湾を横断して,伊豆半島南西岸の松崎港を1時間40分で結んでいる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7111944 |





