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豊田村
【とよだむら】


(近代)明治22年~昭和28年の志太(しだ)郡の自治体名。瀬戸川流域に位置する。小土(こひじ)・五ケ堀之内(ごかほりのうち)・三ケ名(さんがみよう)・小柳津(おやいづ)・小屋敷・柳新屋(やなぎあらや)・保福島(ほふくじま)の7か村が合併して成立。大字は旧村名を継承。役場を大字小土に設置。村名は,永く豊穣な田の実りを祈念することに由来する(静岡県志太郡誌)。明治24年の戸数527・人口2,807,厩17。世帯・人口は大正9年466・2,778,昭和25年594・3,577。明治22年豊田尋常小学校開校,学級数4。同27年大字小土に豊田銀行設立。同31年郡下で最初に瀬戸川以南の364町歩の耕地整理を実施した。同37~40年頃の農家戸数386(就業者1,338)で村内の8割を占め,主に米・麦を生産。村内の水田の36%にあたる131町歩は他町村の資産家の所有地で,村民の所有する田は少なく,1戸当たり5反7畝,畑は14町歩のうち所有する農家は237戸で1戸当たり5畝であった。冬は大麦・小麦,夏作として棉・藍・野菜を栽培していたが,貿易の関係で明治維新の頃や,同29年の棉花の輸入関税撤廃後には衰えた(大洲村誌・焼津市誌下)。貿易の主要輸出品である生糸や茶の関係で桑園や茶園に変わった。また同30年以降はミカン栽培の農家が増加した。山林原野は村内に5反歩なので近隣町村の山林51町歩を主に薪用として,原野2町歩を秣用として利用。同39年当村に耕作用の馬32(32戸)を飼育し,賃耕も行われていたが,必要数の3分の1以下であった。牛は乳牛1頭(1戸)。茶の時季になると郡内北部や榛原郡中・北部へ出稼に行った。出稼者は265人(男90・女175)で,10~12日間程度,日当平均20銭であった。一方村への雇い入れは少なく,農繁期に女35人程度雇用した。農家1戸当たりの経営面積は1町歩内外で,5反歩未満の農家数91戸のうち50戸は兼業で,小売商・大工・仕事師(とび)・左官・屋根葺などの日雇いがあった。農産物の中心は米・麦であり,茶・ミカン栽培・養蚕もこれらに次いだ。昭和28年焼津市に合併。各大字は同市の大字として存続。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7112973