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国分寺
【こくぶんじ】


稲沢市矢合町にある寺。臨済宗妙心寺派。山号は鈴置山。本尊は薬師如来,明治19年円興寺から国分寺に改称。尾張国分寺も,天平13年国分寺設置の詔の直後から建立が開始されたと思われる。天平勝宝元年5月15日尾張国分寺に知識物を献じた山田郡人外従七位上生江臣安久多,神護景雲元年5月20日にはやはり国分寺に米1,000石を献じた海部郡主政刑部岡足が,ともに外従五位下を授けられており(続日本紀),寺観が整えられていたことが知られる。「日本紀略」元慶8年8月26日条に「勅令尾張国愛智郡定額願興寺為国分金光明寺,縁本金光明寺灾火焼捐也」とあり,国分寺はこれ以前に焼失したので,願興寺を国分寺としている。この願興寺は現在の名古屋市中区正木4丁目の元興寺跡にあった。矢合町椎の木の国分寺跡の発掘調査からみると,焼失後は堂塔の再建は断念されているが,現法花寺町にあったという国分尼寺が国分寺に転用されていた可能性もある(稲沢市史)。「空也誄」(続群8下)や「六波羅蜜寺縁起」(大日料1‐14)に,延喜~延長年間に空也が20余歳で尾張国分寺で剃髪したとある。当地か愛知郡かはともかく,この頃まで尾張国分寺は存在していたことになる。国分尼寺は永延元年11月8日の尾張国郡司百姓等解(稲沢市史資料編6),寛弘6年正月15日の大江匡衡奏状(本朝文粋)に見えるので,11世紀初頭までは存続していた。鎌倉末期からの史料に「国分寺」「国分寺之内」「国分寺領内」「国分」などの表記が散見するが(妙興寺文書・醍醐寺文書/一宮市史資料編5・6),これは地名とみられ,寺の存在を示すものではない。円興寺は創建に諸説あるが,永和元年に妙興寺を開創した滅宗宗興が嘉暦3年に円興寺で剃髪したと円光大照禅師行状記にあり(妙興寺文書/同前5),円興寺の創建はこれ以前にさかのぼる。17世紀初頭まで字一本松の地にあったが,矢倉城跡の現在地に移転し,この時旧国分寺の国分寺堂(釈迦堂)を移したという。これを根拠に幕末に国分寺への改称を申請し,明治19年に実現した。鎌倉期の木造釈迦如来座像2躯,同期の伝熱田大宮司夫妻座像2躯,南北朝期の伝覚山和尚座像は国重文。昭和36年に発掘調査が行われ,金堂跡とこれに接続する回廊跡,塔跡が検出されたが,創建期のものとされる遺構は金堂基壇のみであった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7118309