西実禄新田
【にしみろくしんでん】

旧国名:三河
(近世)江戸期~明治11年の新田名。三河国幡豆(はず)郡のうち。西三河平野南端,一色悪水路河口と北浜川河口との間の干拓地。西尾藩領。元禄元年の干拓失敗後放置されていた地を,文政9年名古屋城下の田島屋文左衛門が地元に金50両を託し,東隣の東実禄新田と一括して西尾藩に地元御用達の連名で再開発願いを出し,藩は幕府の許可によって年内に再開発許可書を出した。翌文政10年東西両実禄新田が完成した。このためか「天保郷帳」では東西をまとめて実禄新田と記し,村高461石余とする。「旧高旧領」では東西両実禄新田に分け,当新田の村高は159石余とある。嘉永4年~明治2年の納米表では村高159石余,納米は19年間のうち8石余が5年,約6石が1年,皆無が7年,元治元年以後6年は銭納となっており,平常作の免は5%。明治11年細川村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7121761 |