深溝藩
【ふこうずはん】

旧国名:三河
(近世)江戸初期の藩名。三河国額田(ぬかた)郡深溝に居所を置く譜代藩。慶長6年下総国小見川1万石の大名松平(深溝)忠利が,所領を額田郡に移され,深溝を居所として立藩。同年の知行目録(島原市本光寺蔵)によれば,藩領は額田郡深溝・芦谷・高力・大草・岩堀・鷲田・坂崎・長嶺の8か村,幡豆(はず)郡桐山村,以上の9か村の小計5,127石余,宝飯(ほい)郡三谷・牧山中・坂本・水竹・清田・不相小江・西迫・五井・平田・蒲形の10か村・4,873石余,合計1万石であった。なお,藩主松平家は中世末の寛正6年あるいは大永4年より深溝を居城として支配していた深溝松平家で,天正17年に徳川五か国検地を実施して所領の再配分を受けたが,翌18年2月5日に城主松平主殿助家忠宛知行書立では,額田郡深溝・小美(おい)・保母・土呂の内,幡豆郡野場・桐山・永良・逆川・六栗,碧海郡中島・長瀬,宝飯郡拾石の村々を与えられており,12か村内1万俵であった。しかし,同18年8月の徳川家康関東転封に従って武蔵国忍領1万石となり,同20年下総国上代に,さらに文禄3年小見川が転じていたもので,深溝への移封は旧領への復帰であったのである。慶長7年高力正重の要望で額田郡高力村の領地替を家康が認めた結果,高力村と同郡大草村の藩領を高力氏に譲り,代替地として額田郡の小美・上地の両村が当藩領となった。忠利の家臣は本城のある額田郡深溝と支城のあった宝飯郡西郡に分散して居住していた。同17年吉田藩3万石に忠利が転封すると,当藩は一時廃藩となる。当藩領は,吉田藩主松平玄蕃頭忠清の弟清昌が宝飯郡の10か村・5,000石を拝領し,額田郡と幡豆郡の旧領は幕府領となった。しかし,同19年家康の出頭人であった板倉内膳正重昌が深溝村を拝領し,寛永元年父伊賀守勝重の三河国内の遺領6,610石余を兄周防守重宗より分知され,深溝を居所として再び深溝藩が1万石で立藩された。元和元年の一国一城令で深溝城は廃城となっていたため,板倉氏は陣屋を居所とした。寛永2年の重昌宛領知目録によれば,藩領は額田郡3か村・1,672石余,碧海郡2か村・984石余,幡豆郡11か村・5,250石余,山城国久世郡3か村・775石余,同相楽郡2か村・199石余,同綴喜郡1か村・25石,上総国山辺郡4か村・843石余,同埴生郡1か村・156石余,下総国葛飾郡1か村・2,000石の4国9郡28か村・1万1,861石余であった。当藩では寛永5・10年に総検地を実施し,幕府公認で1万5,000石となった。慶長10年矢作(やはぎ)川の河道変更で矢作古川・広田川などの氾濫原が大規模に新田開発され,のちの検地で4,150石余の改出高が出て,新村として額田郡の永井,碧海郡の高畑・中新屋,幡豆郡の尾花・高川原・六栗・岡島の7か村が成立した。寛永10年三河国の藩領は,額田郡土呂・永井・深溝の3か村,碧海郡中島・高畑・中新屋・館出の4か村,幡豆郡永良・尾花・高川原・和気・大和田・見吹・室・家武・平原・須美・下六栗・六栗・江原・駒場・岡島の15か村,3郡22か村。寛永16年重昌の嫡子重矩が遺領のうち1万石を相続すると,居所を碧海郡中島に移したので中島藩と改称した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7122842 |