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山田荘
【やまだのしょう】


旧国名:尾張

(中世)平安末期~戦国期に見える荘園名。尾張国山田郡のうち。所在地・四至は詳かでなく,散在型荘園であった可能性もあるが,荘内地名は名古屋市守山区・名東区・千種区・東区・北区に分布し,荘域は庄内川左岸および矢田川流域一帯と尾張東部の丘陵地の迫を中心に分布していたと推定される。荘名の由来は,弘安8年8月日付東大寺領諸荘注進状写に「以郡名為庄名」と見え(東大寺文書/一宮市史資料編6),郡名による。仁平3年4月29日の東大寺諸荘園文書目録に「山田庄券」と見え(守屋孝蔵氏所蔵文書/同前),天平勝宝4年に勅施入,延喜9年立券されたと伝える。天暦4年11月20日の東大寺封戸荘園并寺用雑物目録(東大寺文書/同前)にみえる「山田郡六町」,長徳4年の東大寺領諸国諸庄田地注文(東大寺要録)の「山田郡卅六町」がこれにあたる。しかし弘安8年にはすでに転倒,東大寺はその由来・当知行の輩も不明としている。当荘の本家職は皇室にあり,安元2年以降八条院領,女院没後の建保元年には後鳥羽上皇の管領下にあった。東大寺支配の崩壊後,院政期に寄進されたものか。のち庁分として伝領され,嘉元4年6月12日には昭慶門院喜子内親王領となった(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)。領家職は九条良輔が管領,これを藤原定家に与え,建暦元年9月8日以前に源通光,建保元年5月18日には藤原光家に与えたが,同月22日後鳥羽上皇はこれを収公した(明月記)。なお,当荘内には国衙領東三条・小松江保があった(醍醐寺文書/一宮市史資料編6)。地頭職は,平安末期美濃より山田郡周辺に来住した重宗流源氏山田氏の一族であった可能性が高い(沙石集・長母寺縁起など)。山田重忠はじめその子孫は承久の乱に京方につき,主だった所領は没収されたと推定されるものの,なお一族は郡内各地に勢力を扶植している(尊卑分脈)。荘内の稲生郷地頭免田はじめ地頭職の系譜をひく所領の一部は,長母寺領となって南北朝期に至った(名古屋市博物館所蔵文書貞治4年7月7日付足利義詮御判御教書/県史料叢刊)。応永32年以降,山田荘は室町幕府北野一万部経料所として見える(満済准后日記ほか)。応永32年8月10日山田荘内に百姓逃散の動きがみられ,幕府は警戒を示した(満済准后日記)。この時は大事に至らず終わったと思われるが,永享3年7月12日荘務のため派遣された蜷川親吉に対し百姓が強訴,次いで逃散が発生,幕府は富田荘をはじめ周辺の所領14か所に対し逃散百姓を許容することを厳禁する旨の御内書を発給した(室町家御内書案/集覧27)。この翌年,代官職は北野社関係と推定される「一衆中」に宛行われた(同前)。延徳2年には御料所年貢の減少が問題とされ,織田敏定が800貫文で請負っていた年貢を,織田伊勢守の仲介により持足院に請負わせた(伺事記録延徳2年9月15日・11月4日条/続大成)。この記録を最後として御料所としての実態は15世紀末をもって失われたと考えられる。なお永享2年8月13日には「山田庄道家」が石清水八幡宮大山崎神人より4月3日々使頭役に差定められながら従わずとして訴えられている(離宮八幡宮文書/島本町史資料篇)。また,康応元年12月付歓喜光寺領並末寺領目録には末寺として「尾州山田市道場等覚寺」とみえる(歓喜光寺文書)。山田荘周辺が中世流通面において注目すべき位置を占めていたことが推察される。荘内の中世地名としては,志段見郷・稲生郷・蓮迫・猪子石郷・炭焼迫・秦江郷・狩越郷・田幡郷・八事北迫岩崎郷・東三条・小松江保・上野郷・志賀郷などがみえる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7124379