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伊勢神宮
【いせじんぐう】


古くは伊勢大神宮・大神宮・二所大神宮ともいったが,明治4年以降は単に神宮を正式名称とし,一般に伊勢神宮・お伊勢さまなどと呼ばれる。皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮),および両宮に所属する宮社の総称。主たる神の宮は天照坐皇大御神を祀る皇大神宮と豊受大御神を祀る豊受大神宮で,前者には伊勢大神の宮・五十鈴(いすず)の宮・大神の宮・内宮など,後者には度会(わたらい)の宮・皇大などの別称がある。皇大神宮は伊勢市を流れる五十鈴川のほとり,神路山のふもとにあり,古くは宇治里伊鈴河上の大山中といわれた(皇太神宮儀式帳)。豊受大神宮は宮川下流の沖積平野の一角,伊勢市街地南端の高倉山のふもとにあり,古くは度会の山田原といわれた(延喜式)。両宮にはそれぞれ別宮・摂社・末社・所管社と呼ばれる数多くの付属の宮社があって,これらを総括して神宮が構成されており,宮社の点在する地域は伊勢・松阪・鳥羽の3市と多気・度会・志摩の3郡にわたっている。[斎王] 伊勢神宮の創祀についてはもともとこの地にあった地方神の社が皇室の祖神にとって代わられたという説もあり,あるいは垂仁天皇25年に鎮座したという伝承(日本書紀)をそのまま史実とする説もある。しかし,いかなる目的で伊勢の地において天照大神の祭を行うに至ったかという観点から考えると,斎王による祭の歴史を省みることが肝要である。「日本書紀」によるとまず崇神天皇6年に人民の流離背反につき罪を神に謝するため,天照大神を皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命につけて大和国の笠縫邑(三輪山麓の檜原の地という)に祀らせたという伝承(崇神紀)が縁起の上では斎王のはじめとされる。史実かどうかはともあれ,その動機は注目すべきである。その後垂仁天皇25年,先皇の遺志をついで皇女倭姫(やまとのひめ)命に大神をつけて,大和国莵田の筱幡(ささはた)(奈良県宇陀郡榛原町筱幡神社の地という)において祀らせたが,さらに良地を求めて近江・美濃をめぐり伊勢国にいたり,ここで大神の教えがあり,祠を伊勢国に立て,斎宮(いわいのみや)を五十鈴川のほとりにたてたという(垂仁紀)。なお天皇は倭姫命を大神の御杖(みつえ)としてたてまつり,姫は磯城の厳橿の本で大神を祀り,さらに神教によって伊勢国度遇宮(わたらいのみや)に移したとも伝える(垂仁紀一書)。斎王が大神の杖として天皇から大神に捧げられた皇女であるということは,斎王は大神と同体という意味と解される。しかも雄略紀・継体紀・敏達紀などの表現によると,伊勢大神の祠(まつり)に侍らせたとある。景行紀には「天照大神を祭らしむ」ともある。これが斎王の性格であった。未婚の皇女を伊勢にはるばる差し遣わして大神を祀らせたのは歴代必ずということではなく,景行から天武まで28代の間はわずかに7代7皇女にすぎない。格別の理由の生じた時に差し遣わしたことがわかる。五百野皇女を差し遣わした景行天皇20年は天皇の筑紫遠征より還幸の翌年であり,国内は東西不穏の時代。雄略朝にはその即位前に眉輪王・市辺押磐皇子の事件。継体天皇は皇統まさに絶えようとした時に即位し,しかもその嗣がなかった。欽明朝には海外の大事があり,また蕃神の寺を設けて国神の怒りを招いた。敏達朝には大臣蘇我馬子が仏事を盛んにして再び神の祟を招いた。用明朝には酢香手姫が37年間,日の神のまつりに仕えたというが,これも前代にならったものと思われる。次の天武天皇は壬申の乱を経て皇位に就いた天皇である。以上7代それぞれに国情不穏にして大神を篤く祀るべき理由が存した。すなわち斎王差遣が制度化されるまでは,時の天皇の思し召しに応じて随時伊勢において大神の祭りを行わしめたと考えるのが妥当である。文武朝以降はほぼ歴代を通じて差し遣わされており,後醍醐天皇に至るまで64皇女(または女王)が斎王に定められたが,南北朝の争乱の中でついに廃絶した。斎王制度については「延喜式」巻5にくわしく定めている。これによると天皇が即位して斎王が定められると,まず宮域内に初斎院を設け,翌年さらに野宮を設けて1年の間斎戒の生活を送り,3年目の9月,神嘗祭に先立って伊勢に向かう。その群行の路次には近江の国府・甲賀・垂水(滋賀県甲賀郡土山町に遺跡あり),伊勢の鈴鹿・壱志の5か所に頓宮が造られた。そして山城・近江の勢多川(勢田川)・甲賀川,伊勢の鈴鹿川・下樋小川・多気川の6所の堺川で禊の儀式が行われた。こうして「伊勢の斎宮」に参入してここに侍る。その斎宮寮の機構と年中行事はまさに朝廷の縮図であり,日本武尊が倭姫命に会うために伊勢にわざわざ立ち寄り,神朝廷(かみのみかど)を拝したという(古事記)。その神朝廷とは,この斎宮を意味したと考えてよい。柿本人麻呂の長歌に「度会の斎(いつき)の宮」から神風が吹いたとあるのもまた文字通り斎王の侍る斎宮のことである。現在発掘調査中の多気郡明和町の斎宮遺跡からみてもその規模はかなり広壮なものであった。[大神の祭場] 伊勢における大神の祭りは天皇に対する奉仕に準じるものであった。すなわち,日々の供御と秋の大嘗に相当する神嘗とである。1日も欠かしてはならない日々の供膳のためには,その重任に堪えうる在地有力の氏族をたのむ必要が生じる。それが磯部の一族であった。その首長が度会神主の姓(かばね)を与えられて国の祭祀官僚組織に組み入られたのは和銅4年のことであるが,おそらくはこれより早く,その系図のいうごとくならばおよそ継体朝のころより奉仕に任じたと考えられる。一族は宮川から勢田川にわたる度会の山田原を本拠とし,その中心は高倉山東北のふもと,現在の外宮の一帯であったと思われる。高倉山東南に今も形を留める「抜穂(ぬいぼ)の御田」は度会神主の耕作するところで,その収穫を収納する穀倉(高倉)の傍らに天照大神に朝夕の供膳を奉仕する殿舎を設けた。板校倉造りで棟持柱をもち,前方に刻階(きざはし)を架ける現在の御饌殿(みけでん)は,そのために設けた殿舎で,これを斎宮に対する離宮という意味で外宮(とつみや)と称した。度会神主の主要な職務はここにおける日々の祭であり,いま1つは,秋の神嘗であった。皇統の永遠を祈るための最も重要な祭は,天皇即位の秋に行われる大嘗祭で,これは悠紀(ゆき)・主基(すき)の2つの神殿で行われるので,伊勢でも天照大神に対してこのような同一祭儀の繰返しを行ったにちがいない。これが山田原における神嘗と,五十鈴川上における神嘗であった。その祭日は9月満月の夜の15日と翌16日の夜である。平安期の記録によると15日の祭は度会神主が豊受大神に捧げる祭とされているが,天照大神の御饌の守護神という一機能神が,至上神である天照大神より前に祭をうける理由はなく,また,16日という中途半端な日を至上神の祭とするのは不自然であるから,おそらく,延暦年間よりもはるかに古い時代には,15日も天照大神の祭日であったと考えてよい。かつては度会神主が,日常の祭場と異なる祭場を設けて年1度の秋の大祭として,15日宵から16日暁にかけて新穀をもって天照大神を祀ったのであった。そして主基殿に該当する五十鈴川上の祭場においては,16日宵から17日暁にかけて再び同じ祭が,五十鈴川周辺の磯部氏一族によって奉仕された。この一族の首長は宇治土公(うじのつちぎみ)を称し,のちには宇治大内人という職名をもって祭祀官僚に編入された。神殿の設備は神祭りの古態にとって必須の要件ではないが,天皇よりの奉幣があればこれを収める財殿は必要であり,そのような祭儀には斎王が侍ったので,斎王侍殿も設けられた。これが現在もある東・西宝殿であり,また四丈殿の前身である。神鏡が大神の御像(みかた)として奉斎されるとはじめて神殿が建設されるが,神嘗祭等の宵暁の御饌は神木(心御柱という)の前に供えられるという古式が明治4年までつづくのである。悠紀・主基に擬した新穀の祭がいかに古い起原を持つかを物語るものである。伊勢神宮で神殿のことを「ご正殿」と称するのは,これが天皇の正殿に当たるものとして,その様式までそれに擬して造作されたからである。さらにまた,17日の皇大神宮奉幣の当日には,大神の神前において中臣が榊の枝(太玉串(ふとたまくし))を前において祝詞を奏上したり,直会(なおらい)の酒を采女が御角柏(みつのかしわ)に盛ってすすめ,斎宮の女官らの舞いも行われるなど,大嘗祭の豊明(とよのあかり)を彷彿とさせるものがある。これは度会宮における16日の奉幣の祭場においても同様で,ここでは度会・多気2郡の歌人と歌女が御饌歌と伊勢歌を奏し,采女は五節の舞いを舞った。前者は大嘗祭の風俗歌に該当するとしてよい。これらは延暦の「皇太神宮儀式帳」等に見えるところで,この時期となると,伊勢神宮もまた神朝廷の観を呈してきたといえる。[皇大神宮] 五十鈴川沿岸には水田に縁のある地名が多い。宇治橋前からその旧地名をたどってゆくと,岡田・浦田・岩井田・川原田・楊田・納米・家田・一宇田・堅田となる。宇治の家田の田上宮に大神を迎えた時,宇治土公らの遠祖大田命が,大神の鎮座地を教えたという伝承もある(皇太神宮儀式帳)。そして家田に大神のための神田を設けたともいう。沿岸一帯で農耕を営んでいた磯部氏が早くから大神の祭に関与したことを物語っている。この川の下流鹿海(かのめ)から舟を出し,伊勢志摩の堺の海で大神に供える贄の魚介を採る神事が明治初年まで行われた事実にも,この宇治の磯部氏らが大神を祀った古代の姿を垣間見ることができる。斎王が多気の斎宮において常に奉斎していた大神の御像(みかた)をいかなる理由でいつの時代にこの宇治の五十鈴の川上に奉斎することになったのか。垂仁天皇25年という伝承をそのまま史実とするか否かは諸説の分かれるところである。「続日本紀」文武天皇2年12月条に「多気大神宮を度会郡に還す」とある記事はその意味で見逃しがたい。上述のような神奉斎上の大きな変化は思想的にも格別の変化があった天武天皇時代におこったとする説は捨てがたい。おそらく天武天皇の果たし得なかった遺志をついで持統朝に壮大な正殿が造営されたにちがいない。式年遷宮制度の発端を持統天皇3年におくという諸書の伝承はそのことを裏書きする。しかし持統朝には斎王がなかった。次の文武天皇2年9月,天武天皇の皇女当耆内親王が伊勢に下向する。上記の遷祀はその12月である。度会氏の系譜によると天武天皇元年にはじめて禰宜職がおかれたというのも,白鳳期の祭祀制度の整備の一端である。しかし至上神の御像をこのような山中に常時奉斎するとなれば宇治の磯部氏よりもさらに有力な氏族に託さなければならない。それが宮川左岸の平野を開発した荒木田氏で,その系譜は中臣氏との関連を伝えている。それはともあれ,度会郡の城田郷・田辺郷・湯田郷,および沼木郷の沢地,山幡などを居住圏とした荒木田氏は,ここに皇大神宮の祭祀職の上首となり,宇治土公以下の磯部氏をひきいて神嘗祭などの祭に仕えることとなった。しかし,日々の供御は依然として山田原で行われたことはいうまでもない。11世紀半ばごろから次第に荒木田禰宜らは宇治郷へ移住するけれども,それまではながく城田郷などの遠隔地からその職務を奉仕していた。後述するように宮川以西の摂末社がすべて皇大神宮所属となっているのもそのゆえである。[豊受大神宮] 豊受大神宮の鎮座については,雄略天皇に天照大神の夢告があり,丹波国の比治の真名井で八乙女が祀っているトユケの神を迎えてほしいといわれたので,度会神主の先祖を派遣して伊勢に迎えたという(大同本記/止由気宮儀式帳)。この比治の真名井には天女8人が降りてきて水浴中に1人が衣裳をかくされて天に帰ることができなくなり,トヨウカノメとなったという話が「丹後国風土記」にあり,1杯のめば万病も治るほどの美酒を造ったというこの女神が,天照大神の御饌に仕える役として迎えられたのは意味が深い。天皇に仕える采女の役に該当する常乙女(とこおとめ)としての女神である。日々の御饌を供える御饌殿内には正面中央に天照大神の神座があり,その下手に豊受大神の神座が東向きに設けてあった(神宮要綱)。明治5年以前の古式を伝えるこの構造は,至上神とこれに仕える機能神の関係を物語っている。この豊受姫を大神と称して宮を設け豊受大神宮とした年代を雄略天皇21年とし(太神宮諸雑事記),さらには同年10月甲子14日とする説もあるが,雄略朝までさかのぼりうるか否か議論のあるところである。皇大神宮が現在のような形態をもって成立した時期が上述のように白鳳期であるとすれば,豊受大神宮の成立も当然同時代としなければならない。すなわち日々の御饌の料稲を収蔵する穀倉をそのまま穀神の宮に改造して,皇大神宮の正殿にほぼ匹敵する規模としたのである。系譜上の伝承で度会氏が大神主の職を解かれたとするのはこの時期のこととしてよい。豊受大神宮が成立するとその神域において至上神の神嘗祭を行うわけにはゆかなくなり,9月15日の神嘗は豊受大神を対象とすることになったけれども,祭日は変更されなかったので,皇大神宮の神嘗よりも前に豊受大神の神嘗を営むという不自然な形が後代まで残ったのである。いわゆる「外宮先祭」というこの現象の由来は上述の理由によってのみ理解することが可能である。[両宮の関係] 「皇太神宮儀式帳」は皇大神宮の神堺を,東は石井嵩(いわいたけ)・赤木嵩・朝熊嵩・黄揚山嵩・尾垂峯などの山堺。北は比奈多島・瓶島・志婆埼・酒滝島・阿婆良岐島・大島・屋島・歌島・都久毛島・石島・牛島・小島などの海堺,南は志摩国の鵜椋嵩・錦山坂の山堺,そして西は伊勢国飯高の下樋小河を神の遠堺とし,飯野郡の磯部河を神の近堺とすると記述している。これによると豊受大神宮は皇大神宮の境域の中に包括されているのであって,けっして対等でないことがわかる。「延喜式」でも伊勢大神宮式の中で度会宮のことが規定されていて,度会宮式とか豊受大神宮式という巻は存在しない。伊勢大神宮式の中で式年遷宮のことを「凡そ大神宮は二十年に一度,正殿,宝殿及び外幣殿を造り替えよ」とし,その脇に「度会の宮及び別宮,余の社の神殿を造る年限は此に准ぜよ」と注記してあるにすぎない。「神宮雑例集」によれば豊受大神宮の四至の標示が立てられたのは延長4年のことで,それによると近四至は大垣の外四方各40丈,遠四至は東は赤岑・樋手淵,南は宮山,西は栗尾岡・山幡淵,北は宮河と定められた。大神宮から豊受大神宮がようやく分離独立する傾向がうかがわれる。平安末期から鎌倉期にかけて外宮正殿の規模も大きくなり,神領の獲得にも外宮方はより積極的で,その勢力は内宮方をしのぐほどになり,内宮よりも外宮を優位とする神学をも樹立した。両宮祀官たちの競合はその神威の発揚に資するところもあったが,このような対立関係も明治維新で終止符をうち,明治の新政は再び皇大神宮を至上とし,豊受大神宮はこれに準じる位置におくとされた。[祭祀] 年中最大の祭は上述の神嘗祭で,古くは9月,改暦以後は10月に行われる。日時は上代から変わらない。6月・12月には神嘗と同じ日時に月次祭がある。以上を三節祭といい,その御饌祭を特に由貴の御饌とよぶ。2月の祈年祭は古くは奉幣だけであったが,明治以降は御饌を供えることになった。内宮と荒祭宮では5月(古くは4月)14日と10月(古くは9月)14日に神衣祭がある。松阪市の大垣内・井口中にある機殿で織った絹と麻を神衣として供える祭である。伝統的な祭としてはさらに風日祈祭が5月14日と8月4日に両宮で行われる。明治5年から新嘗祭が宮中と同じ11月23日に行われることになったのは大きな変化である。これらは毎年繰り返し行われる主要な祭であるが,20年に1度行われる式年遷宮祭もまた古い由緒をもつ最も大規模な祭である。皇大神宮は9月16日,豊受大神宮は翌々年の9月15日というのが古代の式日であったことからも判断されるように,神嘗祭に先立って社殿とその内部の装束や神宝類をすべて新しく造って,文字通りの新宮において由貴の御饌を供するというのが本儀であったが,中世以降,その式日が変更され,明治以降は内宮10月2日,外宮は同年の10月5日,別宮荒祭宮同月10日,多賀宮は同月13日は,その他の別宮は翌年中に行われる例となった。最近では昭和48年に第60回として行われた。これらの祭儀は他の神社のそれと異なり,すべて天皇が祭り主であるという本義に基づいて行われ,明治までは律令制,以後は神宮祭祀令の定めによった。しかし昭和21年2月以降は依拠すべき法制上の根拠を失ったので,その後は天皇の思し召しにより慣例の祭を行っているのが現状である。その祭儀の責任者は,宗教法人神宮が奉戴する神宮祭主である。祭主は皇族または皇族であった者の中から勅旨によって任命される。この祭主を補佐して祭を奉仕するとともに法人の責任を負う神宮大宮司は,責任役員の推せんにより勅裁を経て定められる。大宮司は小宮司,禰宜,権禰宜,宮掌,楽師その他の職員を任免し,神宮一切の業務を遂行するというのが現行制度である。[別宮] 両宮付属の宮と社の中で本宮に次いで重んじられる宮を別宮という。皇大神宮10別宮のうち,第一別宮とよばれるのは荒祭宮である。本宮の北,小さな谷川(現在は暗渠)を隔てて鎮座。祭神は大神の荒御玉(あらみたま)と伝える(皇太神宮儀式帳・伊勢大神宮式)。しかし「続日本紀」では荒祭神と記している(宝亀3年8月条)ので,この神名が古いと思われる。生れまつり(現れまつり)の意とも解される。祈年祭・三節祭等に官幣が捧げられるほか,この別宮に限って神御衣祭が行われるなど,他の別宮に異なるところが多い。磯部氏に属する物忌・物忌父・内人がおかれ,また宇治大内人が祈年祭に限って玉串を捧げて参入することなどが,この宮が皇大神宮に先行する祭場ではなかったかと推定される理由である。本宮の物忌の童女らは宮の後の川を渡ることを禁じられていたが,その川が前述の谷川を指すとすれば,この推定もあながち無理とはいえないであろう。次に別宮月読宮は大神宮の北約2kmにある。「太神宮諸雑事記」に「宇治郷十一条二十三布施里と同条二十四川原里の間」と記す。はじめ月読社といわれたが(続日本紀神護景雲3年2月条),次第に重く祀られるようになり,同年9月の祭から荒祭神に準じて幣の馬が供えられることになった。またその荒御魂命と父母の神である伊佐奈岐・伊佐奈弥命も同時に官社に加えられた。「皇太神宮儀式帳」は「月読宮一院,正殿四区」と記す。東に2殿,西に2殿と並んでいたのである。貞観9年には伊佐奈岐・伊佐奈弥2社にも宮号が宣下され,翌年の式年遷宮で社殿が大きく造替されたので大神宮式では「伊佐奈岐宮二座,月読宮二座」と表記する。1宮(4社殿)から2宮へと変化したのである。なお貞観の時に荒魂命と伊佐奈弥命の宮は小殿として2宮それぞれの脇に造られたといわれる。中世以降小殿が造られない時もあったが,明治6年4宮として再興された。もっとも月読宮だけは他よりやや大きく造られている。奉仕者としては内人2人,物忌・物忌父のほか,特に御巫内人1人がおかれたことが他と異なる。月読神は祟を示す神とされていたのでその託宣を受けるためかと思われる。別宮風日祈宮は大神宮の神域内,五十鈴川左岸にある。古くは風神社とされ,4月14日に風雨の順調を祈る祭の行われる14宮社の1つであった。また7月1日から30日まで大神宮禰宜と宇治大内人とが日祈(ひのみ)内人をひきいて連日にわたって雨風や日照りの災いのないよう祈る神事が行われ,8月にも同じ祈りを捧げたという(皇太神宮儀式帳)。おそらくそれはこの風神社で行われたものであろう。中世には4月14日御笠神事,7月4日風日祈の祭と変化したが,これは現在も5月と8月に風日祈祭として続けられている。この社が別宮となったのは正応6年である。文永・弘安の役の際には大神宮にしばしば朝廷から祈願が捧げられたが,弘安4年7月6日風神社の神殿より奇瑞が起こったと伝えられ,翌閏7月1日元の軍船が全滅したのでその奉賽のための列格であった。室町期に式年造替が中絶の際には勧進聖が民衆から募った造営費を献進したり,またこの宮の参道に架けられた風宮橋の造替費を観阿弥という聖が募ったこともある。風宮橋の擬宝珠には「太神宮風宮・五十鈴川御橋・明応七年戊午・本願観阿弥敬白」の陰刻が今も残る。なお,僧尼拝所は明治までこの風宮橋を渡り左岸をさかのぼった正宮の対岸に設けられていた。別宮倭姫宮は両宮の中間にあたる倉田山に大正12年に鎮座した新しい別宮である。最初の斎王とされる倭姫命を祀る。近世の外宮神主喜早清在は早くその神恩に謝すべきを説いたが,明治以降次第にその議が盛んになり,大正期に市民の総意として国会に請願したのが聞き届けられたものである。このほか皇大神宮には伊雑宮・滝原宮・滝原並宮の古い3別宮がある。豊受大神宮には4つの別宮がある。内宮の荒祭宮に相当するのは多賀宮(高宮)で「止由気宮儀式帳」は等由気大神宮の荒御玉神とし,本宮の南の丘の上にある。しかし荒祭宮とちがって本宮の宵暁の御饌の祭のあと,ただちに多賀宮に同じように御饌の祭を行った古記録はない。豊受大神宮では三節祭の御饌は15日夜に行われるのに多賀宮では17日に供えていた。古くは大神宮に対する荒祭宮の関係と異なったのである。内人2人・物忌・物忌父各1人がおかれていた。なおこの多賀宮の東に隣接して,かつては初午祭場という石の祭壇があり,2月上午日と10月上午日に神事があったが,それも明治の改革で廃された。別宮土宮は多賀宮の石段の下,本宮と「中の御池」を隔てた所にある。長徳3年の記録に風社とともに土御祖社と見えるのが初見である。山田原の地主の神といわれる大土御祖神を祀る。大治3年に社号を改めて宮号とし,祈年・月次・神嘗祭の奉幣にあずかることとなった。当時は宮川堤防の守護神ということから別宮に列格されたと伝える。別宮月夜見宮は古くは摂社(平安初期の官帳社)の筆頭として本宮や多賀宮と同じく式年造替は中央の造宮使によって行われるという処遇であったが,別宮に列したのは承元元年である。鎮座地は本宮の北参道(通称北御門(きたみかど))から北へ500m,伊勢市宮後町。古くは大河原といった。別宮風宮は神域内,土宮の東にある。古くは風社という一末社であったが正応6年風日祈宮と同時に別宮に加列した。外宮にも古くは8月に風を祈る祭があった(止由気宮儀式帳)から風社の創祀もけっして新しくはないであろう。[摂社] 神宮で摂社とは,平安期に神祇官の官帳に登載された,いわゆる式内社のうち別宮には列せられない社の謂である。大神宮式には大神宮所摂24座・度会宮所摂16座とある。これを鎮座地の地域別にみると,内宮所摂では五十鈴川流域・宮川流域・田丸平野の3群になり,外宮方では山田原と高倉山周辺・勢田川流域・宮川流域の3群に分けられる。これらの社には祈年と神嘗の祭に幣帛が供えられたが,内宮方の上位の6社と外宮方の上位3社は造神宮使が社殿等を造作し,その他の社は国司と郡司が正税をもって随時修造するというように,おのずから格差があった。それぞれの社には大神宮司が任命した祝(はふり)部がおかれていた。内宮方の摂社の祭は荒木田氏か磯部氏が奉仕し,外宮方のそれには度会氏が奉仕していたので,摂社の分布図はそのまま上代のこれら氏族の分布図ということになる。考古遺跡などをこの分布図に重ねてみることにより,上代の人文関係がおよそ推測されるはずであり,摂社の所在地は重要であるけれども,中世に多く廃絶し,近世に入り寛文年間と元禄期に再興されたものの,果たしてそのすべてが上代の鎮座地であるか否かは問題が多い。以下はすべて現在の鎮座地名により記述する。まず皇大神宮摂社のうち五十鈴川流域には上流から伊勢市宇治今在家町2社・同市中村町1社・同市楠部町2社・同市朝熊町2社・度会郡二見町4社,宮川流域では度会郡大宮町三瀬川1社・度会町上久具1社・伊勢市津村町1社・同市佐八町1社,田丸平野では度会郡小俣(おばた)町湯田1社・玉城町佐田1社・同町上田辺2社・同町蚊野2社・同町原1社・同町矢野2社・同町山神1社・同町宮古1社・多気郡多気町土羽1社の27社である。また豊受大神宮の摂社は山田原と高倉山周辺では神域内3社・伊勢市常磐町3社・別宮月夜見宮域内1社,勢田川流域では伊勢市藤里町2社(これは度会神主の奉仕上最も大切な御常供田の傍らにある)・同市船江町1社・同市神社港1社・度会郡御薗(みその)村新開1社。宮川右岸では伊勢市辻久留町2社・御薗村高向1社。左岸では小俣町小俣に1社,以上16社である。両宮付属の社にはなお末社(末官帳社)が内宮に16社,外宮に8社あり,そのうち1社は鳥羽市に鎮座する。また所管社がそれぞれ14所・4所あり,別宮所管社も4社ある。内宮所管社のうちで滝祭神は古くは滝祭物忌がおかれ(皇太神宮儀式帳),神嘗祭には別宮につぐ待遇がされる(大神宮式)など,他に異なるところがあったので,現在も三節祭などの神饌は別宮に準じている。古くより無宝殿と注記され,明治の改正までは小柴垣で囲むだけの設備であった。その他の所管社も,特に社殿を設けないものもある。[経済] 神宮の施設や祭を維持する経費は,第2次大戦前は政府の保証するところで,大化の新政ではじめて度会・多気の2郡を神郡と定めたといわれる(皇太神宮儀式帳)。すなわち大化5年に評(郡)を立て,山田原と竹村とに屯倉(みやけ)を設けたというから,当初は朝廷の直轄地をもって神宮の御料に充当したとみえる。そして多気郡から4郷をさいて飯野郡を立て,これを公郡としたというが儀式帳によると,この3郡を1所にまとめて大神の宮に仕えたとするから,飯野を公郡としてもその所課はやはり神宮の用度にあてられたと思われる。その地域は磯部川以東で,古くは度会という1国あるいは1郡の地である。上述した神の近堺の内はすべてこれ大神の御料の地であったことになる。これを戸で表したものが封戸(神戸)で,宝亀11年5月条(続日本紀)には1,023戸(1,230の誤り)と見えるが,これは伊勢国ほか6か国の封戸をすべて合わせた数字で,大同元年牒によると伊勢944戸とある。大神宮式には飯高郡36戸・一志郡28戸・安濃郡35戸・鈴鹿郡10戸・河曲郡38戸・桑名郡5戸とあるから神三郡には792戸あった計算となる。「神宮雑例集」には神三郡の封戸は972烟で,内訳は度会447烟・多気315烟・飯野210烟とする。伊勢国以外の封戸は「延喜式」によれば大和15・伊賀20・志摩66・尾張40・参河20・遠江40である。もっとも神戸といえども時により増減はあったらしく,上述の宝亀11年には「旧に随い之を復す」とあり,延暦20年の格には「大神の宮の封戸は改減の限にあらず」といましめている。これら神戸の百姓は神税を納め,庸調を奉った。神服や祭器の類を造進したり神地の洒掃をしたり,そのほかの労役に服するなど日々の奉護と年中の祭祀に仕えたのである。「大同本記」や「倭姫命世記」には神田・御饌処(御贄地)などの縁起を説いているが,それらも神戸の人々の奉仕の一端を伝える資料である。例えば,大和のササハタにおいて童女を見出してこれを大物忌と定めたというのは荒木田神主の女を大物忌としたことの発端を物語る。伊賀の国造が篦山と葛山の戸を貢進したというのは,ここの神戸が祭器の簫に用いる竹や黒かずらを調進した本縁であり,アユをとる淵や梁をたてる瀬を貢進したというのは,現在までつづいている年魚献進が倭姫命の時に始まると説いたものである。二見では御塩浜を,宇治の家田では抜穂田を,志摩の国崎では潜女(かずきめ)を,あるいは御贄処を定められた等々は,すべて神戸の人民らの庸調の縁起である。また伊賀・尾張・三河・遠江の神戸が絹・絲・綿・白布・麻・木綿,あるいは酒や御贄を供進したり,二神郡の神戸の人らがサカキの枝を持ち寄って祭日の宮を飾ったり,懸税の稲1,437束を秋の祭に御垣に懸けて供えるなどのことは儀式帳によって知られる。儀式帳や大神宮式に見える禰宜,大内人,物忌,物忌父などの職掌雑任と称された人々はこの度会の神戸の民の中から出て,それぞれの地位や特技をもって世襲した者たちである。平安期になると飯野郡も神郡とされ,さらに伊勢国の5郡が次々に献進されて神八郡となった。しかし,神戸の増大はかならずしも神宮に有利とのみはいえず,神戸の名をかりてこれを横領する者も出るにいたった。「倭姫命世記」などが神田・神戸・御贄処・御饌処などの聖なる起原説話を力をこめて記述しなければならなくなったのは,その実体が危機に陥っていたことを裏書きするものにほかならない。すなわち儀式帳の時代は終わったのである。そして新しい供給源として生まれたのが,新神戸とか御厨(みくりや)・御園(みその)とよばれる寄進地である。皇室・国家のための祭祀を維持するためにいわゆる宗教活動を行う御師(おんし)なるものが発生し,これを通じて権門勢家からその私領の寄進を受けるという,極めて重大な変容がおこらざるを得ない時勢となったのである。御厨や御園は13世紀初頭には全国で約450か所,そのうちの300余は伊勢国内にあったという。それが鎌倉期になると全国では御厨500余,御園は320余,神田190余,名田150余で,合わせて820か所を数えるようになった。くわしくは「神鳳鈔」に見えるが,中でも有名なものは,鎌倉権五郎景政が永久5年に寄進した相模国大庭御厨150町である。ただしここから内宮に献じられるのは籾40石,白布13反,長紙500帖にすぎず,大部分の収穫は相伝者である平氏の手に帰したものである。また内宮に献じられた上分の中から,この寄進を取次ぎした口入神主が少なからぬ口入料を年々取得する慣例であった。たとえば大治5年下総国には相馬御厨が荒木田神主延明を口入神主として建立されたが,「神鳳鈔」によると,この御厨の上分は内宮に布50反で,口入料は布100反であった。ともあれこれら御厨や御園の上分によって両宮の供祭の用度は辛うじて確保されていたものの,それも鎌倉末期からは次第に武家の押領するところとなり,享徳元年の「内宮庁宣」によると伊勢国で180所,諸国のそれを合わせても248所ともいう衰退を示し,しかもその上分が伊勢まで満足に届けられるという保証はまったくなかった。これに関する室町期の神主らの記録は悲痛を極めている。天文4年には伊勢国に45所,尾張・美濃・三河に各3所,伊賀2所を留めるのみとなった。やがて文禄検地にいたり豊臣秀吉は朱印状をもって多気郡内4か村に2,500石,度会郡有爾郷に140石を寄進し,別に内宮領として526石余の地を寄進し,さらに,宮川以東の地は大神宮の敷地として検地を免除し,また一切の課役を免除した。これらの朱印地と諸役免除は江戸幕府になっても踏襲され,宮川内の住民は神領民として神宮の余沢をこうむるところが多かった。明治維新により朱印領はすべて上知し,神宮経費は国庫支弁となった。神宮は国家の施設であるからこれは当然のことであったが,全経費が支弁されたわけではなく,国民が献進する浄財がその大半を占めていた。昭和21年2月神宮に関する一切の官制は廃止され,その後は宗教法人としてもっぱら民間崇敬者の奉賽によって経営されることとなり,国費はまったく支出されなくなった。[御師] これは御祈師または御祈祷師が省略されて御師という言葉になったというのが通説であるが,このような省略は無理なので,やはり平安仏教の高僧が貴族の御師僧,または御師として帰依を受けたことにならって,武将たちによって帰依された権禰宜らの神主をも御師と呼ぶにいたったものと思われる。足代弘訓の「御師考証」「御師考証附録」の両書をみると,初期の御師がその呪術性のゆえに畏敬されていたことがうかがわれ,密教の祈祷僧との観念上および習俗上の連続性が想定される。その発生は上述の口入神主のように,願主のために大神宮に祈祷をささげ,その報賽としての所領や供物の寄進を仲介するのが当初の職務であったらしい。したがって初期の御師は両宮の禰宜や権禰宜を本務としていたのであるが,やがては御師を本務とする者が祀官の補任を受けることになり,近世になるとまったく祀官でもない者,すなわち,山田や宇治の自治機関である山田三方会合や宇治会合所の年寄とか町々の年寄が御師になったり,あるいは御師のかたわら行商を行う者,御師を専職とする者などさまざまの様態をみることとなり,彼らの間には自ら上下の階層が形成された。御師の機能は,(1)諸国から参宮する檀那を宿泊させる,(2)私邸において祈祷,神楽を執行してお祓麻(おはらいぬさ)の授与,(3)参拝や見物の案内・饗応接待などで,そのため多くの手代を使用していた。参宮者(道者といった)はこれに対し初穂料や神楽料を供えたり坊入(饗応料)や心付を贈った。御師には慣例により固定した檀那および檀那の地域がある。多くは手代を派遣して年1回の檀廻を行い,「お伊勢宿」では床の間に御神木を祀り,近在の民衆の祈祷の求めに応じた。この檀廻により師檀関係は年々再確認され,その情緒的なつながりは強化され,新しい檀家獲得もできるし,遠国の民衆にとっては居ながらにして「お伊勢さま」の神徳に浴し得るとして喜ばれた。御師がお祓麻にのしあわびを添えて贈る風習はかなり古いが,室町後期となると土産の品目も多彩となり,鰹節・青海苔・フノリ・伊勢白粉・貝類・帯・扇・茶・櫛・針・小刀・紙・墨などが檀家の階層や地域に応じて贈られた。中でも伊勢暦は最も珍重される土産の1つであった。もっともこれらが純粋な贈り物であったか,そこに行商的な行為が伴ったかは問題のあるところであろう。御師の存在は参宮人の増加をうながし,また地方に神明社・万度社・御鍬社・大神宮灯籠などの建立を促し,伊勢講の寄合いを強化するなど,伊勢信仰の普及浸透に及ぼした影響はきわめて大きいものがあった。家庭内に大神宮棚を設けてお祓麻を祀る習俗も彼らが育てたものといえる。しかし,明治の改革により同4年2月,将軍家や諸大名から寄進されていた御師たちの知行を停止し,同年7月師職制度は全廃された。壮大な宿坊を持つ者は旅館業に就業できたけれども,多くの手代や神楽師・暦師などは失業のうき目にあった。内宮御師309人,外宮御師555人のすべてが廃止されたため,彼らが配布していた大麻(おおぬさ)や暦は神宮司庁が直接全国に頒布することになった。その機構は種々の変遷を経て明治33年神宮神部署官制ができて昭和21年2月まで,国民の神宮崇敬に関することをすべて所管した。師職の館において行っていた祈祷や神楽は,両宮の神楽殿で取り扱って今日にいたっている。[施設] 祭祀施設としては,まず両宮の正殿以下の建造物がある。唯一神明造,ヒノキの素木造り萱葺屋根に金銅の飾り金具を最小限度に配した正殿はその壮大高雅な風姿によって著名である。この正殿を中心として東宝殿と西宝殿を配し瑞垣をめぐらした空間を内院とする。その外は蕃垣・内玉垣・外玉垣・板垣をもって囲み,それぞれに門がある。一般の拝所は板垣南御門を入ったところの外玉垣南御門前である。この門の内側を中重(なかのえ)といい,正面に鳥居,東側に四丈殿がある。これは古代の斎王侯殿である。内宮の場合は板垣南御門の前に石階があり,その下の参道脇に御贄調舎が設けてある。忌火屋殿は祭に供する御饌の調理所であり,その前方には祓所がある。御酒殿では白酒・黒酒・醴酒をつくる。また外幣殿,御稲御倉,五丈殿があり,五十鈴川畔には大祓の祓所がある。外宮では板垣北御門の内側に外幣殿と御饌殿がある。天照大神に対する日々の朝夕の御饌祭はこの御饌殿(板校倉造)で行われる。外宮には五丈殿と九丈殿もあるが御稲御倉はない。祭主以下の神職が参籠潔斎する斎館は両宮ともに第一鳥居の付近にある。斎館の構内には行在所があり,天皇・皇后・皇太子・同妃の参拝時の潔斎に供される。御饌の御料を弁じる施設としては神田(伊勢市楠部町・同勢田町),御薗(二見町汐合)で野菜果実を栽培する。御塩浜,御塩焼所,御塩殿はいずれも二見町。御料鰒奉製所は鳥羽市国崎町。干鯛調製所は愛知県南知多町篠島にある。土器調製所は多気郡明和町有爾にあり,風日祈祭に供える蓑笠の原料の菅も同所で栽培する。機殿については前に述べた。奉賽施設としては両宮神域内に神楽殿と御饌殿があり,内宮には饗膳所・参集殿もある。神楽殿や諸別宮で授与する神札や全国の家庭に頒布する大麻の類は頒布部の奉製所において調製している。教学施設としては神宮徴古館と農業館および神宮文庫が両宮の中間に当たる倉田山に,神宮道場が宇治浦田町に,幼稚園が宇治中之切町と八日市場町に,また神職養成機関の神宮研修所が桜木町にある。その他の施設としては工作場が宇治館町と外宮々域内とにある。20年ごとの式年造替の用材の貯木,製材から仕上げまで一切の工作,および日常の営繕事業を行っている。これらの用材は現在は国有林から払下げを受けているが,将来に備えての用材育成は神路山・島路山・前山などの宮域林の一部と,宮崎県と熊本県に設定された記念林において進められている。史跡としては宇治橋前に旧林崎文庫(貞享3年建立)があり,そのほかにも祭主職舎(宇治浦田町)は旧慶光院の遺構をとどめ,その前方にある神宮道場(旧神宮司庁)は明治35年の建築で,洋風を加味しつつ日本建築の様式を生かした明治建築としての完全な姿を留めている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7125185