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竪町②
【たてまち】


旧国名:伊勢

(近世~近代)江戸期~昭和38年の町名。明治前期は四日市を冠称することもある。立町とも書く。江戸期は四日市町の1町。四日市町の中央部に位置し,北は北町,南は南町と接する。古くは縦市場・竪市場と呼ばれたが,これは文明2年田原忠秀が浜田城を築いた際に西方の柴田地内を通っていた東海道を城の東方に移し,四日市庭浦(洲浜・四日市湊)に通じる東西方向の道路と交差させて,その四つ辻を中心に南市場・北市場・縦市場を開設したことによる。当地は東海道四日市宿の中心部(札之辻とのちに呼ぶ)とその東方に位置する四日市庭浦(洲浜)を結ぶ唯一の道路に沿って発達した市場町で,弘治・永禄年間には縦市場と称した。江戸期に入ると,四日市町は東海道の宿場町として発展し,その中心をなす南町・北町と隣接する当地も繁栄し,やがて竪町と呼ばれるようになった。また当町は幕府四日市陣屋の所在地で,四日市代官は四日市町をはじめ周辺の幕府領の村々を支配した。この陣屋は,初代四日市代官水谷九左衛門光勝が慶長8年に築いたもので,規模は東西44間・南北46間,総坪数1,826坪。堀幅は5~13間で堀の内側には土塁を築き,表門を入ると左側に2棟,右側に3棟の役所があったという(三重の城)。現在の市立中部西小学校の地がその跡地。四日市代官はたびたび交代したが,享保9年大和郡山藩領となり,享和元年再び幕府領となると近江国信楽代官所(代官多羅尾氏)の支配するところとなり,四日市陣屋にはその手代が派遣されることになる。いわゆる出張陣屋となったのである。当町の一部である竪町横丁はのち魚の棚と呼ばれ,さらに魚(肴)町と称するようになる。肴町の名はすでに寛永19年の史料に見えるという(昭和5年版四日市市史)。魚町の町名は魚を扱う店が集住していたことにちなむ。町の面積と伝馬負担数は,寛永13年五町米盛によると面積9町3反・伝馬数20匹,慶安2年五町米盛では9町7反・伝馬数25匹。この伝馬数は四日市宿内五町(南・北・竪の3町と中瀬古・大浜)のうちで最大。はじめは人別に賦課されたが,負担の不公平が問題となり,寛文10年各戸の石高に賦課する高がかりに変更され,伝馬10匹を13軒の伝馬役の家で勤めるように軽減される。四日市宿に御茶壺が宿泊する時は,古くは各町内から接待に出たが,享保年間からは当町は中町(中瀬古)と組んで3年に1度御案内迎番を勤めるようになり,寛政4年には3年ごとに宿の詰番をする。また,毎年4月・8月に二条城や大坂城の大番衆が交代のため四日市宿に来る時は一行の到着時より夜9つ時まで西町と一緒に詰番をした。文化7年の四日市町改革では各町を7組に分けたが,竪町と横丁(魚町)とで竪町組を構成して町代役1名を出している。7月26・27日に行われた諏訪神社祭礼(四日市祭)には,練り物を出した。町内には代々四日市の庄屋を勤めた井嶋家があり,「寛政泗水郷友録」には学者として井嶋重好の名が見られる。明治初年には曹洞宗興楽山東陽寺で服部翼が英語義塾を開設し,これは県下最初の四日市学校(光運寺を校舎とした)の基となった。災害では,安政元年6月の大地震で潰家5軒・半壊31軒を出し,特に魚町で6名の死者を出している。明治5年三重県が成立すると,四日市陣屋が県庁となった。県庁は同9年の伊勢暴動で襲撃され,建物は焼失。また当町の中屋が襲われ,商品の砂糖数十樽が路上にばらまかれたと伝えられる。同21年の戸数62・人口306(昭和5年版四日市市史)。同22年四日市町,同30年四日市市に所属。町制施行にともなう町会議員の選挙区としては共同会に属した。戸数・人口は,明治43年69・322,大正7年62・424,昭和3年の世帯数66・人口313。同20年の四日市市大空襲により町内全域が焼失したが,戦災復興事業で商業区として再建された。同33年の卸売店数4・小売店数19。同34年の世帯数62・人口280。同38年まで土地公称四日市の一部で公称町名であったが,同年住居表示実施により中部・北町の各一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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