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津藩
【つはん】


旧国名:伊勢

(近世)江戸期の藩名。安濃津(あのつ)藩ともいう。また藤堂藩と呼ばれることも多い。安濃(あの)郡津を中心とする伊勢国と伊賀国一円その他を領有した外様大藩。居城は津城。津は中世,工藤祐経の後裔と称する長野(工藤)氏が支配してきたが,永禄年間長野氏の重臣細野藤敦が安濃城に拠り,この地を支配した。永禄10年織田信長の伊勢侵攻にともない同12年信長の弟織田信包が長野具藤の養子となり,津城に拠って安濃郡を領し,津城を拡張して五層の天守を築いた。信包は文禄3年近江2万石に転封されるまで約20余年津城主であったが,豊臣秀吉はそのあとへ文禄4年近江出身の富田知信を安濃郡5万石(うち2万石は子信高)で配置した。秀吉の没後,慶長4年信高は5万石の跡を継いで徳川家康に接近し,会津上杉攻めに従軍。石田三成挙兵の報に急ぎ帰国したが,津城は西軍毛利輝元・長束正家ら3万の大軍に包囲され,3日後に落城し,信高は剃髪して高野山に隠遁した。関ケ原の戦後,信高は伊勢国内で2万石加増されて津城主7万石に復したが,慶長13年伊予国宇和島12万石に転封した。また伊賀国上野9万5,000石(諸家譜,当代記は20万石)を領有した筒井定次は,乱行の罪で同年改易となった。このあとへ同年藤堂高虎が伊予国今治から移封し,伊賀一円10万540石,伊勢国安濃・一志(いちし)郡のうち10万400余石,伊予国越知郡のうち2万石の合計22万950石の大名となった(宗国史)。高虎は近江犬上郡藤堂村の郷士の家に生まれ,初め浅井家に仕えたが,のち秀吉の異父弟秀長に仕えて粉河2万石を領し,秀長の没後は秀吉の直臣となって文禄4年伊予板島(宇和島)7万石に封ぜられた。その後徳川家康の篤い信任を受け,関ケ原の戦の大功により伊予国今治20万石の大名に取り立てられた。高虎は慶長6年近江膳所城の縄張りと営作,同7年山城伏見城の石垣構築,同11・12年江戸城普請の縄張りと普請,同13年丹波篠山城の縄張りと普請,同15年丹波亀山城の普請など多くの城郭普請を手がけた。その経験を活かして勢伊移封後は大坂に備えて慶長16・17年上野・津両城を修築し,大坂冬・夏両陣の功により元和元年伊勢国鈴鹿,奄芸(あんき),三重,一志4郡のうちで5万石,さらに同3年日光廟建設など積年の功を賞されて度会(わたらい)郡田丸5万石を増封され,また弟正高が慶長4年から知行していた下総国香取郡内3,000石の領有を認められ,合計32万3,950石の大大名となった(宗国史)。元和5年徳川頼宣の和歌山城入部にともない田丸領5万石と山城国相楽郡,大和国添上・山辺・十市3郡内5万石とが交換になった。寛文4年の所領は伊賀国一円182村10万540石(阿拝郡69村3万9,413石余,山田郡25村1万6,499石余,伊賀郡50村2万7,953石余,名張郡38村1万6,673石余),伊勢国8郡のうち297村17万410石余(安濃郡85村5万8,012石余,一志郡のうち85村4万8,546石余,奄芸郡のうち35村1万7,236石余,鈴鹿郡のうち10村6,453石余,河曲(かわわ)郡のうち10村1万4石余,三重郡のうち23村1万133石余,飯野郡のうち29村1万4,403石余,多気郡のうち20村5,619石余),山城国相楽郡のうち16村9,923石余,大和国4郡のうち110村4万87石余(添上郡のうち29村9,478石余,山辺郡のうち44村1万7,226石余,十市郡のうち26村1万711石余,城上(式上)郡のうち11村5,137石余),下総国香取郡のうち14村3,089石余,ほかに山城・大和・下総国内延高2,507石余で,合計32万3,950石余(寛文朱印留)。寛文9年3代高久襲封時に弟高通に5万石(伊勢国6郡のうち4万石,山城・大和両国のうち1万103石)を分与して支藩久居藩を立藩し,さらに元禄10年高通の弟高堅の久居襲封の際に安濃郡3,000石を分封し,津藩は27万950石となった。天保6年の藩領は,伊賀国一円119村・伊勢国297村・山城国16村・大和国110村・下総国15村で,久居藩領を含み,また改出新田高3万6,390石その他を含んで石高36万2,961石(郷村高込帳抄)。明治2年には久居藩領を除き草高27万950石,ほかに新田高・延高・込高ともに2万8,384石。人口は寛文5年25万2,061人(当歳以上),元禄3年28万4,126人,享保17年28万7,284人(三重県地方史研究備要)。津藩は初期に軍役の比重が大きかったことが特色で,寛永年間の馬乗855人,鉄砲1,564丁と鉄砲数が著しく多く,大坂冬の陣に6,000人,夏の陣に5,000人が参加した。藩の職制は,津と上野に城代を置き,家老・加判奉行のほか宗旨・舟・寺社町の各奉行があり,加判の下に郡奉行(伊勢・伊賀各2人,山城・大和1人)を置き,郷方支配のため郡代官・郷目付・大庄屋・庄屋が設けられ,町方支配のため津・上野に加判奉行に直属する町年寄・町名主があった。津藩政の特色については平高(延高)と無足人と伊賀者がある。平高は高虎在世時に起源があるが,藩は明暦年間から元禄年間にかけて内検を実施し,分米高を定めて所有・移動の実態を把握し,本高(元高)に対し何割かの延率(増加率)を掛けた。これは藩の年貢増収と確保を目的としたもので,延率は各村まちまちであったが,これは村ごとの生産力の差異にもよるが,差等を設けて各村の分裂支配も意図していた。大和・山城領にはなく,伊賀領は伊勢領に比べ延率が高かった(宗国史)。無足人は,土着郷士懐柔のため士分に次ぐ者を無足人(農兵で俸禄なしで公用に供する者)としたもので,次第に人数を拡充し,伊賀領では慶安年間75人であったのが,元禄年間1,200人余にのぼった。無足人には御目見・平・藪廻り・山廻りなどの階層があった。彼らは村落の有力者であり,庄屋・年寄も無足人から多く選ばれた。伊勢領では後期に藩財政救済のため資金寄進者が無足人に取り立てられる者が多かった。無足人は平時は郷方の治安維持を担当し,有事は補助的軍事力となり,天誅組鎮圧や戊辰戦争にも無足人による農兵隊が参加した。服部半蔵は徳川家康に「忍の者」として仕え,高虎も身辺警護や情報収集に伊賀者を利用し,加判奉行の下に20人を直属させた。伊賀上野城下の忍町はその集住地であった。また伊賀者は特殊技能のため他藩に召し抱えられた者も多く,桑名城下にも伊賀町があった。高虎は入国後,津を平時の居城,上野を大坂に備えた有事の拠城として城郭修築と城下町建設を進め,津は人家も富田氏時代の3倍に増えて寛文5年の町数37,人口1万2,200人の城下町となり,上野も三筋町を中心とする碁盤目状の町割を行った。津藩政は高虎の時に基礎が築かれ,藩祖高山公として藩政の原典とされた。2代高次(~寛文9年)は,藩直営工事として新田開発を積極的に進め,西島八兵衛・加納藤左衛門(直盛)らにより伊勢国一志郡雲出井,伊賀国小波田野新田(美旗新田),山中為綱による一志郡高野井の灌漑工事を行い,年貢増収による藩財政の安定を図った。しかし,他方寛永12年の江戸城二の丸石垣工事,同16年の江戸城本丸復興工事,慶安元年の日光家光廟の石垣工事などを命ぜられ,この重なる手伝い普請と貨幣経済の進展により藩財政の悪化,家臣団の窮乏が顕著化した。3代高久(~元禄16年)は藩政刷新を企図し,地方知行を全廃して領地を藩の直接支配下に置き,伊勢国曽原・伊倉津の各新田など新田開発を積極的に行い,天和元年と元禄2年に新田検地を実施した。また吉武次郎右衛門・玉置甚三郎ら加判奉行を中心として農村対策を推進し,郷中法度17条を発布し,町方に対しては問屋株を設定して商工業の統制を行った。高久には子がないため弟高睦(~宝永5年)が4代藩主となり,宝永年間に職制の一部を改正したが,畿内・東海にわたる大地震に見舞われて領内にも被害が出た。その跡は久居藩主高通の嫡子高敏(~享保13年)が養子となって継承,宝永6年の富士山爆発災害復旧のための駿河,相模川筋御普請手伝いを命ぜられた。高敏の跡も久居藩より6代高治(~享保20年)が入り,7代高朗(高豊,~明和6年)も久居藩から宗家を継承した。8代高悠(~明和7年)の時には仙洞御所御普請手伝いがあった。高睦から高悠にいたる元禄・享保・明和年間にいたる間は天災・凶作が頻発し,城下町商業の繁栄と裏腹に度重なる手伝普請も加わって藩財政は極度に悪化し,農村も階層分化が進行して疲弊に苦しんだ。久居支藩より入った9代高嶷(~文化3年)の治政20年を経た寛政年間には,郡奉行茨木理兵衛ら下層藩士層を中心に大庄屋層にも働きかけて藩政改革の動きがあり,菓木役所の設置による植樹や耕地の障害となる樹木伐採,桐・楮・蜜柑・柿などの苗木配分,椎茸栽培や養蚕奨励等の殖産興業策を実施し,一方金融政策として享保17年の大凶作の際に従来の裏判金貸付を拡張して創設された切印金による金融を寛政4年建直しを図って借入金の据置,利率引下げ,償還期延長を実施し,さらに同8年切印金百年賦返還,その他の借金延払いを発令した。同年茨木はさらに本百姓の維持再建のため一志郡山中の38か村を対象に10年限りで田畑山林の地ならしを断行した。金融政策とも関連する急激な改革のため農民は地ならしに強く反抗し,同年12月26日から一志郡小倭(こやまと)郷9か村から起こった一揆は一志・安濃・奄芸・鈴鹿の各郡村々に波及し,3万人の農民が村々の豪農・村役人,城下町の豪商を打ちこわし,津城に押しかける大一揆に発展した。藩は全力をあげて防備・鎮圧にあたるとともに一揆の要求を容れ,茨木の知行,屋敷を没収して蟄居を命じ,郡奉行,郷目付ら役職者を罷免した。こうして改革は寛政一揆によって挫折したのである。一揆の首謀者の庄屋層5人のうち2人は牢死,川口村森惣左衛門ら3人は死刑獄門となった(津市史・寛政期の藤堂藩)。久居支藩より入った10代高兌(~文政8年)は自ら率先して儒教精神に則った藩政刷新の範を示し,藩体制の引締め,綱紀肅正,財政再建に努めた。義倉の設置,植林・養蚕の奨励のほか高齢者や善行者表彰,風俗の矯正,藩校有造館開設による文武奨励など改革策を実施して藩中興の盟主とされた。11代高猷(~明治4年)の幕末・維新期は,天保から嘉永にかけた連年の凶作や安政の大地震に見舞われ,農村は極窮におちいり,藩財政も極度に窮乏し,明治初年の藩債は212万両余にのぼった。また異国船来航による沿岸や伊勢神宮警備に奔命させられた。藩政は保守的上士層が抑えて保身のため独特の公武合体,尊王佐幕を唱えた。文久3年天誅組鎮圧のため彦根・紀州藩とともに出兵し,禁門の変には形勢観望して長州と会津・桑名のいずれの側にも与しなかったが,変後当藩は山崎の狭隘部の警備を命ぜられて山崎・橋本に砲数門と800の兵を置いたので,当藩の動向が鳥羽・伏見の戦を大きく左右することになった。津藩は幕軍方の交渉にも応じず,薩長軍にも反感があり,勅使や長州側の交渉にも応じずに佐幕的中立を保持して形勢をみていたが,重ねての勅命と幕軍方の劣勢をみて指揮者藤堂采女は一転して新政府側について幕軍に砲撃を加え,幕軍方総崩れの要因となった。戊辰戦争には津城代藤堂高泰(仁右衛門)が総帥となって東海道の先鋒軍に加わり,関東・東北に転戦したが,多くの無足人が徴兵隊(農兵隊)員となって従軍した。明治2年版籍を奉還して高猷は藩知事に任じられ,藩庁を津城内,上野に支庁,出張所を大和国古市と下総香取郡大貫に置き,明治4年高猷は老衰のため退き,12代高潔が藩知事となった。版籍奉還時の江戸城中の詰所は大広間。この間,明治3年藩政改革により平民兵の新軍隊が編成されたため,旧士族不満派の長谷部一(旧姓藤堂監物)ら一部が反対して処刑された庚午事変(監物騒動)と称する内紛があり,また同4年伊賀4郡に平高が廃止延期となり,期待を裏切られた農民が庄屋層を打ちこわした平高騒動と称する一揆があった。藩校は10代高兌が藩校設立を計画して資金準備を整え,文政3年津に津坂孝綽(東陽)を督学として有造館を開校し,督学として津坂のほかに斎藤正謙(拙堂)・川村尚廸(竹坡)・土井有恪(牙)らの学者が出た。伊賀にも文政4年支校を建て,今も遺構を伝える崇広堂があり,三宅錦川・小谷巣松らの学者を出した。藤堂宗家の客分であった名張にも安政5年鎌田梁洲を教頭として訓蒙(きんもう)寮を設けた。有造館はまた資治通鑑・月瀬紀勝など数十種に及ぶ出版事業も活発に行った。伊勢国安濃・一志郡は草綿の栽培が盛んであり,伊勢木綿として江戸に出され,元禄11年津に綿問屋も設けられた。津の津綟子(つもじ)と称する麻織物も特産物であり,煙草は伊賀・伊勢で多く栽培されて津城下の八幡町は藩より煙草製造専売権を与えられ,また津の田中(田端屋)・川喜田(伊勢屋)など江戸に進出して大伝馬町に大店を構えた伊勢商人が出た。明治4年廃藩置県により安濃津県となり,同5年三重県と改称され,同9年度会(わたらい)県を合併して現在の三重県が生まれた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7127923