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寺町②
【てらまち】


旧国名:伊賀

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治5~20年頃までは上野を冠称。江戸期は伊賀上野城下町の1町で,町人地。城の南東,城下町の東に位置する。北は新町,西は相生町・片原町,南は裏町と接し,南北に約600m程の町並み。地名の由来は,町域の7割が寺院で占められていることによるという。寛政年間頃の絵図によれば,当町の東側には北から本覚坊,妙昌寺,真言宗高野派万福寺,浄土宗光明山念仏寺,西側には恵光院,真言宗善福院長明寺,浄土宗大膳寺,大膳寺隠居所が並ぶ。これらの寺は広大な寺域と土塀を有し,一朝有事の際は一帯が防御陣地となるものであった。また,これらの寺院の南には寺の諸事に従事する人や修験者なども居住していたと考えられ,「伊賀考」には,みこ町の名が見える。ほかに上野山平楽寺や大善寺の西南に山伏寺寿福院がある。寿福院は,藩主の信仰が篤い修験寺で,毎年7月大峯山へ入山する時は藩から初尾(初穂)や護摩料などが下賜された(統集懐録)。同院開基の修験僧は藤堂高虎とともに伊予国から伊賀国へ来たという(永保記事略)。同院は天和年間頃には三之町筋の紺屋町西にあった(統集懐録)。万福寺はもと平楽寺で,伊賀上野城の西にあった七堂伽藍の大寺であったが,天正伊賀の乱で焼失し,その後仮庵を結んでいたが,藤堂高虎入国以後現在地に移されたと伝えられる(伊水温故)。同寺には伊賀越えの仇討での死者が葬られている。本覚坊はのちに上行寺と改称。同寺は藩主藤堂家の菩提寺。妙昌寺は法華宗で,はじめ本能寺派に属した。寺内に鬼子母神,その南に三十番神を祀る小祠がある。三十番神は,天台・華厳宗派の番神とされ,後には日蓮宗にも祀られるようになった。番神の神体は紀州粉河からの伝来と伝えられ,延宝8年6月15日の遷宮という(伊水温故)。現在は歓喜天・毘沙門天なども祀られている。念仏寺は浄土宗の大寺で,はじめ大和国筒井庄にあったが,筒井定次の伊賀への移封に伴い当地に移ったと伝えられ,このため俗に大和寺といわれる。「伊水温故」によれば,本尊阿弥陀如来の立像は安阿弥の作で,長さ5尺5寸。現在の本尊は,鎌倉初期の作で高さ1.3m。同寺は,元禄7年の玄長火事で焼失した。また,同寺には元弘2年正月19日沙門向阿と記された末代念仏授手印が所蔵されている。同寺以南に寺はなく,南には簀戸門が建てられていた。大膳寺は大善寺とも書き,開基は暁誉。同寺は,寛文9年に本堂を新築,延宝4年に丈室,同5年に庫裏などを建てたが,元禄7年の玄長火事で焼失。俗に伊予寺とも呼ばれ,家老藤堂玄蕃家の菩提寺。大膳寺隠居所は,のちに暁誉が紀州粉河の超誓寺の僧であったことにちなみ超誓寺と改称された。また,暁誉は高虎が伊賀に移封されたのに伴って今治から移り同寺に隠居したため隠居寺とも称された。明治10年大膳寺と超誓寺が合併し大超寺となる。長明寺はもと智積院の末寺で,現在は真言宗豊山派,本尊は十一面観音。天和2年に商家の檀那衆により33体の観音が奉納され,諸寺に分け与えられて巡礼の信仰仏となった。これが伊賀国巡礼のはじまりと伝えられる(伊水温故)。境内から新町に至る通り抜け道がある。恵光院は,のちに妙典寺と改称され,現在は本門仏立宗。「伊水温故」によれば,開基恵光院日詠は無双の大力勇僧で,高虎・高次の帰依僧とあり,「茅栗草子」にもその大力の逸話が記されている。明治5年の戸数58・人口214(うち男106・女108)。明治6年,北部に小学第二校が開設され,同15年東部学校と改称,さらに同20年頃寺町尋常小学校となり,同44年丸ノ内の尋常高等小学校に合併された。明治22年上野町,昭和16年からは上野市に所属。明治22~昭和25年までは大字上野のうち。明治41年津島神社が菅原神社内美加多神社に合祀。同45年寺町尋常小学校跡地に上野町役場が中町から移転,大正14年まで存続。その跡に昭和2年伊賀農商銀行本店が営業を開始,同14年から三重銀行上野支店となり,同27年頃上野市教育委員会の事務局を同銀行2階に併置。同34年同事務局は東町に移転。明治36年頃には寺院地区の南に東海製糸株式会社があったが,同40年頃忍町に移転。安岡機工場は大正期まで存続。大正3年大超寺は火災によって本堂を焼失,庫裏も大破し,その後再建された。昭和26年総合授産場が設置され,同35年盲人ホームを併設,同53年身体障害者福祉センターに発展した。昭和26年の世帯数94・人口398。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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