東町①
【ひがしまち】

旧国名:伊賀
(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治5~20年頃までは上野を冠称。江戸期は伊賀上野城下町の1町で,町人地。城下町の北東部に位置し,西は中町,東は片原町・鍛冶町,南は魚町に接する。北側は外堀に面し,東之立町通と本町通が交差する十字路を中心に東西約3町程の地域。この十字路付近は東大手町ともいわれた。地名の由来は,本町筋の東に位置することによるという。東端に上野の産土神上野天神があり,当町は同社の門前町として発展したといえる。同社は上野山平楽寺の伽藍神であったが,天正伊賀の乱で焼失したため上野の山の神に移され,天正13年筒井定次が伊賀上野の経営にあたるや,現在地に移し,上野の産土神としたといわれる。あるいは筒井の故地の大和の菅原の地の天神を勧請したとの説もある。慶長16年修験者小天狗清蔵は伊賀奉行の援助を受けて同社を再興した(上野神社棟札)。境内には別当寺威徳院があり,寛永12年には宮坊として密乗院が建立され(伊水温故),もと平楽寺の1坊であった薬師寺・隅之坊が移された。藩主藤堂高虎は楼を寄進し,2代高次は寛文9年社領18石余を寄進した。元禄15年には楼門,享保5年には随身・狛犬が作られた(永保記事略)。上野天神秋祭りに供奉する練り物の楼車は桐本と称した。楼車は幕末に修造され,天幕・胴幕の下絵は築山楽山と大北珉堂の筆。宿駅が置かれ,寛永2年に設けられた問屋場は本陣を兼ね,役馬30疋と定められた。加太越奈良道を通る際には必ずこの問屋場で乗り継ぐよう定められた。江戸初期の問屋役は奈良屋半右衛門,享保2年には小倉屋安右衛門となり,文化年間頃からは貝増九右衛門家が勤めた。当町の商家は地侍出身の者が多く,伊勢屋広岡勘兵衛家には城代家老藤堂采女の庶子が嫁した(藤堂采女家秘事録)。また,大和屋は大和の窪田村の出身で筒井氏とともに上野に移り,窪田彦左衛門と称して酒造業を営んだ。松尾芭蕉の門人宗七(俳号宗好)は同家の出であり,同じく門人の猿雖(内神屋窪田惣七郎)もその一族で薬問屋であった。さらに芭蕉の妹婿である丸屋堀内与惣右衛門,平野屋築山忠右衛門などがいた。明治5年の戸数58・人口243(うち男122・女121)。同年問屋場跡に上野郵便役所が設置され,のち上野郵便局となり,大正14年丸ノ内に移転。明治22年上野町,昭和16年からは上野市に所属。明治22年~昭和25年までは大字上野のうち。明治40年頃,のちの百貨店の先駆となった3階建ての勘商場が築営されたが,同43年伊賀上野銀行に買収された。大正10年同銀行は百五銀行に合併,同11年同地に百五銀行上野支店が移転してきた。昭和49年同支店は恵美須町に新築され,当町の支店は上野中央支店となった。大正6年農工銀行上野支店,同10年四日市銀行上野支店が進出。農工銀行は昭和15年に日本勧業銀行上野出張所となり,のち上野支店として同33年頃まで存続。四日市銀行は昭和7年に閉鎖,その跡に同11年滋賀銀行上野支店が片原町から移転。大正11年上野阿波自動車合資会社が設立され,同12年から上野郵便局役所跡に上野~阿波間の乗合自動車として営業を開始,その後路線を拡張し,現バスセンターの先蹤をなした。同社は昭和19年三重交通株式会社となり,同33年上野市産業会館の設立に伴い丸ノ内に移転。昭和初年上野郵便局跡に近代商店が建てられたが,第2次大戦により閉鎖。昭和20年強制疎開により東之立町通の東側の家屋は取り壊され,道路が拡幅され,戦後は上野銀座街の入口として交通量が最も多い道路となった。昭和46年株式会社ジャスコが進出。昭和26年の世帯数67・人口328。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7128847 |





