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馬越峠
【まごせとうげ】


間越(尾鷲大庄屋記録)とも書く。熊野街道にある峠で,尾鷲(おわせ)市堀北浦と北牟婁(きたむろ)郡海山(みやま)町鷲下(わしげ)にまたがる。馬越(間越)に坂・山・道を付して,当峠を含む街道を表現することが多い。天狗倉(てんぐら)山(天倉山)の北麓にある鷲下(鷲毛)から南麓にある堀北浦に通ずる急峻な街道の峠で,天狗倉と呼ばれる黒雲母花崗斑岩の露岩頂(515m)の西北西400m,稜線が天狗倉から標高220m程度まで下る中間点にある。峠の標高は,明治44年測量では325m,昭和42年測量2万5,000分の1地形図尾鷲では340m,同年測量の5,000分の1森林基本図尾鷲市3では350m。峠が天狗倉山とその西の便石(びんし)山(山頂三角点の標高は明治44年測量では599.3m,昭和32年測量では598.9m)との鞍部から100m以上も高く,鷲下側の道も堀北浦側の道も尾根筋を通っていることや,石畳が敷きつめられていることは,多雨地域の山道の特色といえる。この石畳敷設の記録が未発見のため,「尾鷲市史」では中世のところに説明し,「ふるさとの石造物」では近世の元和9年・寛永12年・正徳2年の3つの造成説をあげている。堀北浦側の天狗倉山腹の開拓道路との交差点から60m登ったところから約70mの区間(5,000分の1森林基本図によれば標高80mから90mまでの尾根筋道)は石畳がほぼ完全な姿で残っているので,昭和48年に市文化財となった。天保7年の文書には,元禄年間頃の絵図によって尾鷲北浦の北に一里塚があったと記されている。この一里塚は,正徳2年に間越の一里塚として修築された記録があるが,現存しない。近世には,馬越(間越)茶屋があった。天保11年の文書には,当時から50年ほど前に化生狼(ばけおおかみ)が往来の人々を苦しめたので,茶屋の主人平助が下野国岩船山地蔵尊に祈願してこれを退散させ,茶屋の地に地蔵堂を建立したと記されている。明治21年,当峠を通らず鷲下の東の小山浦から天狗倉山半島を海岸沿いに迂回する車道が県道として完成した。次いで,大正5年には総工費37万5,000円をかけた長島(紀伊長島)~尾鷲間道路改修工事の最終段階としての相賀(あいが)隧道と尾鷲隧道をもつ新県道が竣工し,馬越道は寂れていった。鷲下~北浦(堀北浦北部)間の隧道のある新県道は馬越道からおよそ0.5km西寄りの谷壁を走り,45間の相賀隧道は標高120mで尾根を貫き,265間の尾鷲隧道は北口標高140m・南口標高130mで天狗倉山・便石山間の鞍部を貫いている。隧道の高さ4.5m・幅員4.2m。横壁には約50mごとに石油ランプが付けられていたが,昭和2年から電灯に切り替えられた。尾鷲隧道の題字は永田秀次郎知事の書で,大正15年10月長野幹知事の視察の際に,沿道町村の学童は「大正五年の秋なかば,のぼる朝日の空高く,熊野は今や開けたり」と歌って知事を迎えた。翌大正6年,この道を6人乗り,2頭立て客用馬車が走りはじめ,尾鷲~長島間を結び,長島~松阪間の乗合自動車に接続した。同9年には,尾鷲自動車株式会社の定期乗合自動車が運行されるようになって馬車はなくなった。昭和9年,紀勢東線が尾鷲まで開通した。このうち,相賀~尾鷲間6.7kmの工事は大倉組が46万円余で請け負った。大倉組は延長1,400mの尾鷲トンネルを新式ディーゼルエンジンで掘って注目された。同トンネルは上記県道の西にあり,標高30mで山体を貫いている。現在の国鉄紀勢本線の尾鷲トンネルである。熊野街道は昭和34年1級国道42号に昇格して改築事業が進められた。そのうち,同39年から同44年までの138億円余の改築事業費の一部を使用して,天狗倉山と便石山の鞍部付近を貫く尾鷲トンネルが昭和40年尾鷲隧道の西に竣工した。同トンネルは延長606m・標高120mで,紀勢本線の同名トンネルと交差している。天狗倉山の「てんぐら」は天にそびえる岩の意で,山頂でも豊かな森林に覆われているこの付近で,この山の露岩は特に目立っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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